二十一年二月、東京の岩本五兵衛ほか五人は、当時日本が外国から年四、五百万円にのぼる砂糖が輸入されている状況下、製糖事業は国内の重要事業であり、北海道は甜菜耕作に良好の地であることから資本金四〇万円を募り札幌に製糖事業を起こし、一カ年五朱の利子の下付並びに営業開始後利益が一カ年五朱にならない時は不足分の補給をされたいとの願書を提出した。その結果四月創立が認められ、利子の下付及び利益保証が許可され、社長には堀基の甥堀宗一が就任し、その八月宮内省の認可を得て苗穂村の御料地三万八九六二坪が二〇年間貸与され、工場建築地にあてられた。ドイツからは優良種子を購入し、北海道庁雇技師ジーメルを聘し、機械も三五〇馬力一昼夜菜根五万三二四八貫を消化するドイツ製を用い、工場は二十三年十月竣工した。しかしこの頃から会社経営上の危機に当面、堀宗一は社長を辞し技師長となり伊東祐之が社長となったが、伊東は株券偽造事件を起こし、二十四年北海道庁理事官浅羽靖が社長に就任して会社経営に努力した。その後谷七太郎を社長に、浅羽は常務取締役として社務をみ、二十四年は多少の利益をあげた。しかし二十五年には第六十銀行の破綻による道内金融の混乱と、同年気候不順による甜菜収穫の激減から行き詰り、二十八年作業中止のやむなきに至り、三十四年解散し、建物は大日本麦酒会社の麦芽製造所となった。