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質屋

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 明治二、三十年代の札幌のその日の労働力や売上によって生活する日雇・小商人および小農民たちは、預金すらなく銀行借入によって賄うことはまず不可能なため、緊急時の資金は旧来からの風習による家財の質入や販売によらざるを得ない状況にあった。開拓使時代、松本判官が向井嘉兵衛を招いて〓質店を営業させたことは既述の通りである。
 二十年代の札幌の質屋について、三十年刊行の『札幌沿革史』から引用してみると次の通りであった。
当区質屋営業者は現今十六戸にして、最近三カ年間の平均に依れば、一ケ年の貸出金、殆んど二〇万円、口数十万にして、当区の金融上、一大機関たり。借人は諸職工三割三分、労働者二割七分、中等以下小商人一割五分、農民二割、其他五分の割合にて、大別せば市民八割、農民二割なり。貸金に対する抵当物品の種類は、衣類七割、夜具蒲団一割二分、時計類六分、金物書画古本及雑貨一割二分にして、金利は昨年道庁令にて一定せられ、抵当物の種類等に依り、差異あるも、平均二分五厘なり。貸出金最多き月は市民は、冬季即ち年の十二月より翌年四月迄、農民は播種季節四、五、六の三ケ月なり。又受戻最多き月は、市民は工事のある六月より十二月に至り、農民は収穫後即ち九、十、十一の三ケ月なり。貸金一口の高も、市民と農民と異なりて、市民は最高金三百円、最低金拾銭以上。農民は最高金五拾円、最低金壱円以上なり。農民の借金最低額の市民より高きは味ふ可き事なり。抵当物価に対する貸金の比例は、抵当物品の種類に依り異なりて、衣類は売買相場の八掛乃至九掛、平均八半掛、夜具蒲団及時計類は八掛、金物及雑貨は七掛なり、流質は貸金に対し、一割七分乃至二割にして農民の流質は不足なり。流質は多く当区内空知郡及上川郡の諸地方に売捌けり。貸金期限も、府県なれば、最短六ケ月、多くは一ケ年なるも、当地にては普通三ケ月にして、二ケ月の猶予を与へ、尚ほ受戻さゞれば流質となす習慣なり。