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札幌農学校の文部省移管

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 道庁管轄後、とくに二十三年帝国議会の開催以来予算が削減され、農学校廃止論も噂された。この状況を打開すべく校長心得佐藤昌介は、農学校に官立学校及図書館会計法を適用する案を提出、上京して運動を行った。さらに内務・文部両省協議の上、農学校を文部省直轄とした上で同法を適用する方針が決定され、二十六年十一月に文部省直轄とする件が公布されたが、議会の解散の影響を受けて施行は二十八年四月からとなった。
 これにより教授定員が八人から六人になるなど職員定数は削減され、さらに二十九年に改正された校則で兵学科・工学科・予科が正式に廃止され、入学資格は本科が原則として尋常中学校卒業、農芸伝習科は高等小学校四年卒業となった。
 このように文部省直轄当初は、規模の縮小や教育程度の低下を内容とする校則改正があったが、三十年に土木工学科が設置され、ついで佐藤校長の意見書にもとづき、三十一年に修業年限二年の予修科が、三十二年には森林科が設置され、その後も拡張を続けた。
 この間、校長は十九年に森源三佐藤秀顕(事務取扱)、二十一年に橋口文蔵を経て二十四年に教授佐藤昌介が校長心得となり、二十七年に校長に任ぜられた。また十九年に外人教師ブルックスが教頭心得を命ぜられたが、同年の官制でこの職は廃止され、二十六年ブリガムの離任により外国人教師は跡を絶ち、かわって佐藤、大島正健南鷹次郎広井勇宮部金吾、新渡戸稲造ら農学校出身者が多く教官となった。