同講にとって最大の行事は、もちろん例祭であった。三十年の例祭について、札幌神社の『日誌』は「崇敬講員モ凡ソ六七拾名供奉ヲ仕レリ」と記している。おそらく準備の段階から奉仕が始まっていると思われる。
また毎月一回十五日の参拝日には講員一同参集し、神事のあとささやかな親睦の宴の開かれるのが恒例であった。さらに十一月二十三日の新嘗祭には、収穫物を神前に供し、神事のあと直会を行うのが大正末まで続いたという。このほか二十六年の暮には宮司の依頼によって、二百数十人の人数で境内の刈払いを行い、また同年大晦日には講員三〇〇人が参集、綱引の神事を行ったが、これは四年ほど続いたという。
以上、崇敬講の規則、活動等について略述したが、ここでその性格について若干考えてみたい。まず、規則前文にあるように、同社祭神については、一方で「開拓の守護神」とその設置目的を明らかにしつつ、住民(講員)の立場からは「官幣中社ヲ以テ直ニ氏神トシテ」とあるように、村の産土神としての観念でとらえ、講を組織していることである。講の構成も、円山村を中心とした農民がほとんどであり、さらに規則中の「農隙」云々もこれを裏付けている。さらにこの講の「組」は冠婚葬祭等生活の単位としても位置づけられている。すなわち名目はともかく、同講は円山村を中心とする近辺農民が札幌神社を、地域住民の産土神社とした氏子組織であり、そこには講としてもつべき親睦・団結等の意味も含まれていたといえる。同社近辺に村の鎮守社が創建されなかったことがこれを裏書きしているといえよう。