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祭典区の発展と活動

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 四区で出発した祭典区は三十年には実質六区となり、三十二年秋、官幣大社昇格奉告祭および鎮座三十年記念祭を機に実質八区編成となった。
 各祭典区は、それぞれに寄付の募集、山車、装飾等の計画から、当日の諸行事の実行、決算までを行ったが、三十年における第一区のうち南二条通を例にあげると、世話人八〇人のうち常務者二七人で、分担は御輿係(四人)、山車進退係(三人)、弁当掛(四人)、山車内監督(二人)、先導太鼓兼茶瓶係(三人)、取締方(八人)で、他は各町との交渉、庶務にあたった(北海道毎日新聞 三十年六月十五日付)。第一区はこのほか南一条および大通南側でも係編成をしている。
 また、祭典に要した経費を三十一年の祭典第五区を例にとると、七九四円余の支出のうち、神輿渡御費が九二円余、各町神燈および飾付費が二二一円余、山車屋台修繕芸人人夫雇賃などが三一六円弱、賄料が一一八円余で、他は事務費、雑費等である。これによると神輿渡御費はあまり多くはなく、ほとんどが町内の飾付、山車等に費消されている。また当日の景況は二十八年頃を例にとると、区中国旗を掲げ、中心部は軒並に短冊つきの桜の花をさし、球燈を点じた。また各所に緑門(アーチ)を設け、あるいは高竿を立てて大国旗を立て、一二〇〇燭光のアーク燈を装置した。その中を、花笠に揃いの単衣の若衆が威勢よく山車をひき、印半纏に股引麻裏草履の姿でつき従い、また南一条から三条までの創成河畔には見世物小屋が立ち並び、芝居小屋も大入満員となった。祭の期間、汽車賃は二割引となって近郷からも大勢の人が入り込み、宿屋も満員となり、札幌は祭一色となって夜遅くまでにぎわったという。