維持については前編でも述べたので、ここでは簡単に二、三の事例を挙げるにとどめたい。
まずは先述の大谷派札幌別院の三条説教場で、ここでは地所内に貸家を建て家賃収入を得ており、二十五年三月から二十七年二月までの収入は三三〇円に達していた(三条支院 大谷派札幌別院)。ただし同説教場の二十四年三月から十二月までの各月収支には、収入は「賽銭」と上経料だけで家賃収入はない。同時に支出の欄には米塩噌の分が全く記載されていないところから、おそらく経理の主要な部分は別院が行ったとみられる。きわめて都市的な型といえよう。
篠路村の龍雲寺の場合は、永続財産資本として一〇〇〇円を集め、その利子年額二〇〇円を維持にあてるとしているが、この型は比較的多い。同寺の場合、永続資本拠出のうち四五〇円が檀家分で、他は石狩法性寺・新善光寺住職などである。一方支出は二〇〇円のうち米代および下男給料が各三六円、臨時費見積りが二五円、修繕料が二〇円等となっている(浄土宗龍雲寺創建書類 北大図)。このほか前編の時期にもあった、開墾地を付与し僧職が開拓して生活の資の一部にあてる方式も、この時代篠路村に見られる。
このような旧開地とは異なる維持方法がとられたにもかかわらず、僧侶、とくに説教所担任の生活は開拓民同様に苦しいのが一般であった。担任も仏事専門で生活できるのはむしろ例外で、農耕にも従事し、収穫した大根などを札幌に売りに行って生活の足しにしたような例も多い。白石村のある説教所では、まず形ばかりの草小屋を建て、原始林を切り開き、炭を焼いてそれを長女が札幌へ運んで現金収入を得、辛うじて生活を維持したという。
また建物も笹小屋等が多く、大吹雪の日には担任が蒲団を背負って近所の民家に宿を乞うたことも珍しくはなかった(下野津幌郷土史)。さらに前述の開墾地付与の場合、「三反四畝ノ場所ヲ弐反余ヲ相開候ヘトモ、元来荒蕪地ナレハ不容易所ニテ病身ノ拙僧開墾従事出来兼、殊ニ布教不行届ノ者ニ候ヘハ甚タ恐縮之至リナレトモ退場仕、篤ト養生仕度」(寺院説教場関係 大谷派札幌別院)と、生活の厳しさ故に去らざるを得ない場合もあった。