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庚申講

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 信仰に関する講は全国的に多種多様のものがあり、したがって現市域内にも多くの講が結成された。編纂物等に記載されているのはそのうちの一部でしかないが、これを紹介し、若干の考察をつけ加えたい。
 庚申講の一つは伏見で、明治十二年に戸主の会を設けて親睦をはかろうとしたが、他の一人が移住前に同講に加入していたこともあり、移住に際して庚申の軸を持って来ていたので、「依て信向(ママ)を基礎とし庚申の日を以て各戸交互に会合し親睦を計るべし」(伏見史稿)として同講を結成し、当日は酒肴のほか金三銭を貯金することとした。その結果「此講の和楽なるを見て希望者益々多く、三四年にして全般に及び、非常なる盛況を呈すると共に貯蓄親和の実を挙げた」という(同前)。
 ここではまず講の設置が戸主会との機能の比較においてなされ、結果についても「貯蓄親和」の強調されていることに注目したい。
 もう一つは円山村で二十三年に二十余名の講員で発足したが、「毎月一回交互にこの厄病払いの祈願すると共に、酒肴を持ち寄り親睦を図り続け」(円山百年史 資料四 傍点引用者)、のち庚申塔を建てた。いうまでもなく、庚申の日は六〇日に一度で、月に一度集まることはない。もしこれが事実とすれば、講本来の姿を変形してまで「親睦」が強調されたのではないかと思われる。本来信仰の講には、信仰のほかに親睦・娯楽の要素が常にあり、本州方面の庚申講でも経済的互助、あるいは寄合協議の場を兼ねる場合もあるが、ここでは共同体創出のための親睦・団結がより強く意識されていたと考えてよいであろう。このほか、二十八年に篠路村に庚申塚が建立された。おそらく講が結成されたのであろう。