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「一夫一婦」の論

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 明治二十年代に入ると、「新開地」札幌の住人たちも、札幌を一つの地域社会と意識しはじめていた。そのような折、キリスト教の立場から男女平等や「一夫一婦」の考え方を訴えかつ働きかける運動がおこった。それは、東京婦人矯風会(本部東京、会長矢嶋楫子、十九年創立)の在札会員である松浦たか等四人の女性たちの手によっておこされた。二十二年六月十八日の『北海道毎日新聞』に、「一夫一婦に関する建白主意書の要領」を掲載し、その賛成者を求めた。その主意書のいわんとするところは、一夫数婦の弊害をなくする具体的措置として刑法改正を行い、女子に不利に適用されている姦通罪を、男子の「妾ヲ置キ碑ニ接シ芸娼妓ニ接スルカ如キ」も皆姦通罪に匹敵するとし、男女ともに裁判所に告訴したり、離婚請求ができるようにしようというものであった。
 当時最大のマスメディアである新聞を駆使しての建白書への賛成を求めるという方法は、かなりの反響があったようである。最初の記事が掲載されてから十日程した六月二十九日の新聞に「在札幌婦人矯風会員」の名で次のような広告が載った。「既に三百余名の賛成者を得たるを以て不取敢其名簿を東京なる本会発起者の許へ送付致置候に付右御賛成の方々へ御通知申上候」と。全国の会員に呼びかけた「一夫一婦」の建白署名運動は、全国各地で行われ、七月二日段階で本部には七〇〇余人分が集まり、元老院へ提出されたという(東京日日新聞)。時間的関係からみて札幌の三百余人分の署名を入れた数字ではないかも知れないが、在札会員の活動は決して小さくはないだろう。
 ところで、在札会員による署名活動は地元男性側からは冷やかな揶揄と嘲笑とを浴びせられたことはいうまでもない。札幌には、本府建設と同時に拓地殖民の基礎固めに必要不可欠として遊廓さえ設けられていた。また男女の人口比率の上からも「男多女少」といった現象が続き、種々の弊害も生まれていた。それゆえ、「一夫一婦」の論理は札幌にとって何かそぐわない現実離れの響きさえ持っていた。それゆえか、その後の署名活動は新聞からは一切みられない。しかし、在札会員による「一夫一婦」の署名活動は、この頃活動していた各種結社団体の会合や政談演説会の演題等に女性の問題がのぼるような契機を与えた。たとえば、同年十一月二十四日の北海道学友会の定例会では、学友会員遠藤国蔵が「一夫一婦の建白に就いて」を演説している。後日の新聞では、ただ一言「無用なる」と報じているところをみると、建白運動を否定する立場であったのであろう。北海道学友会は、その後も積極的に女性の問題をテーマに据えている。ともかく、「一夫一婦」の建白運動以後、札幌の人びとの会話のなかに女性の問題が云々されるに至ったことだけは確かである。