その後しばらくの間、密売淫・「廃娼」問題は、新聞から姿を消してしまう。その一方で、日清戦争を経た段階の三十年の『北海道庁統計書』によれば、薄野の貸座敷数は四〇軒、芸妓数九八人、娼妓数三〇七人にのぼり、それ以前の確かな統計資料である二十五年の貸座敷数二六軒、娼妓数一九六人(札幌小樽細見誌)と比較してもすさまじい増加ぶりを示している。このことは、ふくれあがった遊廓の存在を否定するどころか移転論へ世論を向かわせていったようである。三十二年四月一日の政談演説会では、唐突にも弁士の田尻稲堂が「貸座敷移転問題について」を取りあげた。
この田尻稲堂の移転論は、翌三十三年十二月開会の第七回区会(会期十二月二十日~一月二十八日)において初めて取り上げられ、ここで移転建議が可決され、遊廓移転問題は常設委員に付託された(札幌市市議会史年表)。移転論が区会において建議されるに至った背景には、詳細は不明であるが、田尻稲堂の唱えた移転論も大きく関わったとみてよいだろう。
こうして、この時期の廃娼論はそれ以上深められないまま移転論でお茶を濁してしまった。しかし、遊廓移転が実現するのは、大正九年(一九二〇)まで待たなければならない。