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北海道の札幌

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 こうした状況下、札幌の人たちはいかに区制期を迎えたのであろう。明治二十五年市街中心部を焼き払った大火は、「将に開んとするの花を小夜の嵐に散らせしが如く」、市街地のみならず農業地域でも住民流出現象を呈し、「商人の鋭気を沮喪せしめ商業萎靡として振はず」(大沢興国 札幌便覧、明33)復旧と振興策を模索していた。ところが、日清戦争を前後とする日本の人口移動は、農村の若年労働者を都市部へ押し出し、また海外移民となり、そして北海道への移住という形をとり、北海道移住数の第一ピーク時を出現させた。その結果は札幌の人口流出数を補い、さらに大幅な増加軌道が敷かれたのである。
 急増する移住者を農民として北海道に定着させるため、三十年土地制度の改正を図り、国有未開地処分法を公布し、さらに大地積の処分を進めるために四十一年この法を改正した。札幌の人たちが政府に強く求め、帝国議会に繰り返し請願し続けてきた北海道の総合的、計画的、長期的、有機的で財政面の裏付けをもった開発施策の立案も三十四年から実施されることになった。これを北海道十年計画と呼ぶが、紆余曲折を経て四十三年からは第一期拓殖計画として事業を拡充し、北海道は「拓殖」の時代を迎えた。これにともない札幌は、この国家事業を推進する拠点として、計画から実績まで制御調整する行政基地の役割を担うことになる。
 日露戦争を前後とする第二の移住ピーク、第一次世界大戦を前後とする第三のピークを経て、北海道移民はほぼ完成したとみてよい。区制期は「拓殖」の旗印のもと、農民や雑業者を無制限といってよいほど受け入れた時代でもあった。表1のとおり、札幌の人口は区制発足時最少であったが、二二年を経た市制移行直前には小樽を抜き函館にさえ迫らんとし、増加数・率とも大きく他区を引き離している。
表-1 三区の現住人口増加比較
明治33年大正10年増加数増加比
(A)(B)(B-A)(B/A)
札幌区46,103人116,283人70,180人2.52倍
函館区82,544  140,237  57,693  1.70
小樽区67,308  111,939  44,631  1.66
全道985,304  2,341,100  1,355,796  2.38
現札幌市域79,921  157,762  77,841  1.97
1. 明治33年は『北海道戸口表』(明33.12.31現在),大正10年は『北海道庁戸口統計』(大10年末現在)による.
2. 現札幌市域とは,札幌区に山鼻(含円山),琴似(発寒),札幌(苗穂・丘珠・雁来),篠路,白石(上白石),豊平(平岸・月寒),下手稲(上手稲・山口)の各町村を加えたもの.

 こうした人の移動と増減を表す指標として人口中心人口正中点がある。前者は北海道の土地を平面とみなして、そこに住む人を同一の重量に換算し、平面が均衡を保つ点を示している。その研究によると、明治初年渡島半島東部にあった北海道の人口中心は、明治十年代に胆振地方に移り、二十七年支笏湖南方に迫り、区制期を迎えた三十五年にはついに札幌の厚別に達した。以後、札幌、江別、岩見沢辺を行き来する。また人口正中点とは、人口を東西に等分する直線と、南北に等分する直線との交点で表す。その移動方向は後志地方岩内から南空知への線で示され、やはり三十五年には札幌に達するのである。このように人口中心、正中点の双方を組み合わせてみることにより、区制期の札幌が人の流れに果たした位置付けを知ることができる。
 さすれば「札幌区はすべての点よりして北海道に於ける唯一の首都也、中心也、代表者也」と胸を張りたくなる人も出てくる。『北海道毎日新聞』明治三十四年八月二日付に載る署名記事には、続けて次のように述べられている。「札幌区の盛衰は即ち北海道に於ける全体の盛衰を意味するもの也。札幌区の興廃は即ち北海道に於ける一般の興廃を支配するもの也。(中略)苟くも札幌区民たるものは政治にまれ、教育にまれ、実業にまれ、衛生にまれ、すべての点に於て常に北海道に於ける好箇の模範となり原動力となり、自ら率先して全道に於けるすべての繁栄と進歩とを企図するものなかるべからざる也。之れ実に札幌区民の先天的義務也。公共的責任なれば也」と主張した。こうした意見が生まれる現実を考えれば、理想の社会に向けて非現実の克服を願っていたといえよう。その非現実の実態はいかなるものであったか、理想に向けて札幌の人たちはどのような努力を払い、いかなる「繁栄と進歩」が区制期にもたらされたか、その解明こそ本巻の主要なテーマでなければならない。
 帝国議会への参政権を求め、道会の設置、区制施行を現実のものにしながら、多くの制約を甘受しなければならなかったのはなぜか、税制の改正や徴兵令の施行による国民的義務を負担し、なお「内地」に故郷の夢を描き、「内地」との絆を強く欲し続けるのはどうしてだろう。日本の資本主義社会が成立する中で札幌の人たちが試行錯誤した実態を、行政面、都市機能の整備面から究明しようとしたのが第一・二章である。