その中で市町村自治のあり方に関わり、都築とともに重要な役割を果たしたのが北垣国道の意見であったろう。彼は二十五年七月内務次官から四代目の北海道庁長官に就任し、二十九年四月新設の拓殖務省の次官に転じてのちも北海道施政を所管した。長官在任中の二十六年三月、北海道開拓意見を内務大臣に上申し、郡治の整理と町村の組織を放擲すべからざる課題に掲げ、北海道拓殖事業の基礎となる町村組織の必要性を訴え、「町村自治ノ基礎ヲ立テ、以テ有力ノ町村タラシ」めなければ「其悪果ハ結デ後世子孫ニ遺伝シ、必ズ野蕃ノ俗トナラン」と心配した。
北垣は拓殖務次官へ転出後、北海道の市町村自治について次のように語っている。
各地の現勢を通覧するに、函館、小樽、札幌の如き資力豊富なる通邑大都に次て創始既に久しく成立亦頗る鞏固なるものあり。或は成立日浅く資力亦薄弱を免れざるあり。或は百事草昧に属し未だ部落の形体だも具へざるあり。故に自治制を布かんと欲せば、自ら其制度に階級を設くるの要あり。即ち、資力豊富なるものを以て市となし、之に亜ぐを一級町村とし、資力薄弱なるも部落の形体を具ふるものを二級町村となし、各資力に相当するの制度に據らしめざるべからず(中略)本道の地方制度は案を具し、内務大臣に上申したりしに、大臣審議の末、多少の修正を加へ法制局に回付し、現に同局に於て審議中なりと聞く。
(道毎日 明29・8・19)
井上の意見書をもとにした政府の北海道施政方針が成立するのは二十七年(一八九四)五月で、意見書の全文をほぼ踏襲し標題も異なることはなかった。しかし地方制度の項については三点の変更があった。
一つは、新しく施行する二種の地方制度の文言を修正したこと。すなわち「一、他ノ村落ニ関シテハ、二種若クハ三種ノ組織ヲ設ケ、其ノ人口疎密及資力厚薄ノ度ニ照ラシ、之ヲ適当ニ応用シ、並ニ道路修繕、学校、病院其ノ他国庫ノ補助ニ関シテハ、資力ノ発達ニ隨テ漸次逓減ノ法ニ據ル事」となった。二つは現在の地方組織についての見解を修正し、「本道ノ中、函館ノ如キハ人口六万ヲ有シ、之ニ次テ小樽、札幌、根室、江差、福山、寿都、岩内、余市、増毛、室蘭、浦河、稚内、網走、釧路、厚岸等、其ノ他多少ノ稍市街村落ヲ形成シタルモノアリト雖、是レ実ニ僅ニ一部分ニ過キス」とした。さらに国庫支弁の事業として「戸長役場」を加えた三点である(傍線は修正個所、一八頁参照)。
注目すべきは第二の修正点で、井上意見書になかった札幌の地名がここに加えられ、さらに北海道に二地域が存在する表現を改め、全道域の地名を並列的に一系列で記述しているのである。これは都築の函館、道南(岩内以南)を特別扱いする視点に、北垣の全道一体視点を重ね合わせたことを意味し、歴史性、定住性、財政力を基礎とするだけではなく、拓殖事業の経緯と将来性をも条件に加えた制度の創出を目論んだ結果であろう。
こうした変更を可能にしたのは札幌の人たちのねばり強い自治権要求運動とともに、帝国議会における札幌重視の質疑を挙げることができる。たとえば、加藤政之助議員は北海道と内地住人の間に知識の進度差はないとして「況ヤ函館、札幌、小樽、江刺、福山等ニ至リマシテハ、或ル場合ニ於テハ内地ヨリ却ッテ進ンデ居ル」と言い、香月恕経議員は北海道で人口の多いところとして「函館トカ、札幌トカ、小樽」を挙げた(第五回帝国議会衆議院議事速記録官報号外 明26・12・9)。札幌を函館や小樽と同一視、ないし同類の市街地と意識づける発言は、札幌過小評価を修正する一因となったであろう。
この政府方針は、第八回帝国議会における百万梅治議員による北海道施政方針についての質問書に対する答弁として、二十八年二月六日に衆議院に提出され、国民の知るところとなった。井上意見書ができて一年三カ月、政府決定後九カ月を経過しており、札幌の多くの人たちが内容をくわしく知ったのは、官報掲載の方針が北海道毎日新聞に同年二月連載されたことによる。提出にあたり野村内相は「就中最下級ノ地方制度ノ如キ、最速ニ改正ノ必要ヲ認メ、現今粗ホ其ノ草案ノ調査ヲ完了」したことを表明し(第八回帝国議会衆議院議事速記録 官報号外 明28・1・11、2・9)、北海道に市町村自治制を施行する方針を公にした。