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区制以前

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 札幌が函館や小樽とくらべ、役所役人の街という印象を道民に懐かせるのは、官公署の数もさることながら、北海道庁がそこに所在することが大きな要因であろう。札幌が道都たり得るか否かの前提条件として、道庁の立地がある。三県庁廃止のあと、全道を一元管轄する地方行政機関として、明治十九年(一八八六)道庁が札幌に設置された。しかもそれは、国家政策としての北海道拓殖を推進する特務機関としての役割を担い、さらに北海道会開設後は、地方費経済と自治を全道に広め集積する中心機能をも果たすので、道都でありたいと願うならば、これの永続立地に最大の努力をはらう必要があった。
 道庁設置後、何度かその廃止意見が出され、殖民省又は開拓省案、総督府案を生んだが、実現することはなく、むしろ道庁を札幌以外の土地に移転させて拓殖事業を強力におしすすめようとする声が大きかった。移転先として江別、岩見沢、滝川、旭川などを挙げる人がいたが、札幌の人にとって迷惑この上もない不安材料であったと言わざるを得ない。たとえば、明治二十二年九月山形県知事柴原和は内務、農商務、宮内三大臣に宛て「北海道開拓ニ関スル私議」(国図)を提出し、この年の北海道視察調査の結果として「北海道庁ヲ上川地方ニ移ス事」を建言した。移庁後、札幌に残る旧道庁庁舎を天皇家の離宮に充てるべしと言うのである。
 札幌の住民はもとより札幌と深い関わりのある人々は、道庁もしくはそれに換わる新機関の札幌存続を主張した。たとえば二十五年七月土田政次郎は宮内大臣に「北海道総督府設置並移民保護法之件建議」(国図)を提出し、「北海道政庁ノ地位ハ上川離宮御造営後ニ於テモ永代札幌ト御確定相成候事」を訴えた。すなわち、札幌にある官庁を上川に移すのは経済上不得策であり、上川地方の交通の不便、生産力の低さ、気候条件の悪さを指摘し次のように述べた。
 上川原野ニ向テ新タニ都会ヲ開創セントシ、之レカ為メニ現在ノ中央都会タル札幌ノ富庶繁華ヲ犠牲ニ供スルハ此上モ無キ不得策ト奉存候。夫レ上川ヲ以テ愈本道ノ首府ト定メラルヽ時ハ、其影響ノ札幌ニ及フモノ踵ヲ図ラサス。札幌市街能ク今日ノ繁栄ヲ支フルハ、近傍沢野漸ク村落ヲ増加スルモ亦其一原因ナリト雖トモ、職トシテ道庁、屯田本部、炭礦鉄道会社、其他重立タル官民ノ建物及ヒ数多官吏社員等ノ潤沢ニ由ル。一旦若シ之ヲ失ハン歟、沃野未タ全ク開ケス、村邑尚且稀疎ナルノ今日、二十余年ノ間百千ノ障碍ヲ排シテ幾百万ノ資ヲ抛チ、拮据経営僅ニ市区ノ体ヲ具ヘ、曩ニハ委棄シテ顧ミサリシノ地モ、今ハ一坪十数金ノ価ヲ生シ、民庶依テ以テ生活シ、尚益々進歩セントスルノ札幌ハ、一変シテ荒廃蕭索タル一村落ト為リ了リ、九仞ノ功一簣ニ欠ケンノミ。蓋シ既獲ノ物ト未得ノ物トハ取捨予奪上已ニ対比シ得可キニアラス。上川ノ富庶ハ未得ニ属シ、札幌ノ繁華ハ既獲ニ係ル。両地ノ利害相等シトスルモ、未タ軽々シク交換ス可カラス。

 両者の主張にみられるように、道庁立地論争の背景には離宮ないし北京設置問題がある。明治初年、岩倉具視が札幌に北京構想を描いて以来燻り続けていたこの問題は、二十二年宮内大臣が上川郡内に離宮建設を総理大臣に申牒して結論を得たが、これに伴い道庁も札幌を離れるのではないかと心配する者が多かった。政府は道庁の札幌立地の永続を明言することなく、言外に移庁の可能性を示唆するような発言さえしていたのである。二十六年十二月北海道議会法案の衆議院本会議における政府委員都築馨六(内務省参事官)の発言は次のようなものだった。
 北海道ハ唯今変遷ノトキニ際シテ居ル。始終遷リ変ッテ行クモノデアル。其負担力ハ場所ニ依ッテ違フノミナラズ、時ニ依ッテ大変ナ違ヲ起ス。今日ハ盛ナ市街ト思ヘバ明日ハ衰ヘル。例ヘバ岩見沢ノ如キ鉄道工事ノ間ハ随分盛ナ町デアッテ、鉄道工事ガ連絡シタ以上ハ殆ド北海道ノ立派ナ地ニナリハシナイカト人ガ疑ッタ土地デアル。所ガ鉄道工事ガ連絡シテ見ルト極ク寂シクナッテ来ル。札幌デモサウデアリマス。随分今日ハ盛ナ土地デアリマス。併ナガラ道庁ヲ一朝外ニ移スト云フコトニナッタラ、或ハさびれるカモ知レマセヌ。
(第五回帝国議会衆議院議事速記録第九号)