薄野遊廓の移転は明治三十四年一月の区会で決議された(同前、道毎日 明34・1・20)。移転候補地は中島遊園地鴨々水門付近に内定したが、その後も豊平や北五条西二〇丁目への誘致活動が行われた(北タイ 明35・1・10)。ところがちょうど区長の交代期とも重なり、新区長の招集する臨時区会で遊廓移転問題が取り上げられる予定であった(北タイ 明35・6・22など)。しかし北海タイムス紙上でみる限り、区会では取り上げられた様子はない。その後の詳しい経緯はつかめていないが、大正元年十二月には、南一条橋架橋計画が後日白石へ遊廓を移転するための伏線ととらえられている(北タイ 大1・12・7)ので、鴨々水門付近への移転計画は再考されていたようである。
五年一月、区民数人から移転の実施督促の建議が出され(区会会議録 大5)、さらに札幌区白石町の住民から畑地、京都合資会社から北八条西一丁目一九番地と二三番地(現在の北一九~二三条西二~四丁目辺)の土地寄付の申出により、動きは急となった(区会議案綴 大6、札幌区事務報告 自大正五年十月至同六年九月)。六年十二月道庁告示第七四九号で、移転地を札幌区大字白石町の畑地(面積二万五九二坪、現在の白石区菊水二~三条一~二丁目辺)とし、札幌遊廓と改称すること、薄野遊廓は八年十月三十一日限りとすることが決まった(北タイ 大6・12・17)。しかし、建議では博覧会前の移転を主張していたが、博覧会開催の影響で事務繁多や予算不足などにより予定を一年延期し、九年に白石へ移転し、札幌遊廓となった(札幌区事務報告 自大正六年十月至同七年九月、自大正七年十月至同八年九月)。
醜景である薄野遊廓は、市街地の発展で区の中心部に位置してしまったために、以前のように樹木などで封じ込めようとするのではなく、白石へ移転させられてしまった。しかしこの薄野遊廓のあった場所とその周辺の飲食店街を含めた歓楽街としての位置付けは大きく変わらず、現在に至るまで歓楽街の中心となっている。