開拓使顧問ホーレス・ケプロンを首長とする一行は、明治四年八月七日横浜に到着する。同年九月下旬
アンチセル、
ワーフィールド両技師は北海道の現地事情の調査のため、二カ月にわたって道内視察を行う。この派遣のねらいの一つに、札幌付近の建築用石材の産出事情を調べる件があった。ケプロンの一八七二年(明治五)一月二日の黒田次官宛の報告は、札幌のくだりに「北海道ノ首府タルベキ近傍ニ於テ、如斯ノ水利アリ、水力アリ、且良材アリ、唯建築用ノ良石及ビ石炭ノ二品ハ未ダ其近傍ニ発セズト雖トモ、凡開拓ニ要スル所ノ物件一トシテ備ハラザルナシ」と述べる(開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文 新撰北海道史 第六巻)。また、
ワーフィルド(地理測量担当)は同年一月五日のケプロンへの報文で、札幌市街造営の問題に触れた後「此道筋ニハ都テ建築用ノ良石ニ乏シト雖トモ、之ニ代ルニ諸般ノ造作ニ最モ善良ナル材木夥多アリ。依テ一時之ヲ以テ橋梁及ビ陰溝ヲ作リ、他日ヲ待テ石ニ代フベシ」と述べている(同前)。この書簡の二カ月後、札幌郊外
円山村に石材が発見される。『事業報告』第三編〔物産・礦物〕の五年三月「札幌大工職
大岡助右衛門円山村石材を発見シ掘採ヲ出願ス」がそれである。しかしこの石材は予期のものではなかった。黒田次官から札幌本庁岩村大判官宛の明治五年九月十五日の達書は次のようである。
貴御地建築方石場儀初発ノ見込相違イタシ無致方次第ニ候依テハ土台石ハ本庁ニ限リ其ノ余ハ教師居宅ヲ始メ凡テ木製ニテ除寒ノ所ニ注意イタシ七人ニ住居相成候可致被取計候此段相達候也
(部類抄追録五 道図)