十二年四月、開拓使札幌本庁は家屋改良のため建築費を貸与することとし、「建築費貸与規則」を制定する。『事業報告』第二編によれば石造は一戸一二坪、一八〇〇円、木造(校倉造・ログハウス)は一六坪五合、一三五円と仮定し、利子年五分、償還期間五年と定め、元利均等償還とした。貸付金総額は五万円の計画である。石造の建築費は坪当たり一五〇円、木造のそれは八円一八銭と想定したわけだが、石造家屋は札幌に八戸、小樽に八戸、石狩に四戸の計二〇戸と予定した。貸付方法の特色は、開拓使が家屋を建築して引渡す方式を採用したことで、貸付金が他に流用されることの防止と、石造、校倉造という技術的に難しいことへの配慮であった。貸付対象は後に土蔵を追加するが、『明治拾五年石造家木造家土蔵建貸与調書類』(道文五二四四)などに実施の成果が記録されている。札幌では石造の貸付の希望は現われなかった模様で、多額の建築費となる石造は敬遠されたようである。開拓使は翌年一月、札幌に限り住宅付属の倉庫でもよい、また構造は前述の土蔵もよいと貸付条件を緩和するが、緩和の理由に、札幌は小樽、石狩と違って石倉や土蔵造りの建物がごく少ないためとある。当時の札幌区民の経済水準を示す話として注目される。なお小樽、石狩には北前船が船底石として運んだ福井産の笏谷石(凝灰岩)を用いた石倉がすでに建設されていたという(小樽運河史)。
話を戻して、貸付条件の改正の結果、石造の融資枠二〇戸は十五年早々に札幌区民が消化する(小樽、石狩は申込皆無)。前述の簿書の記録によれば、津軽通七番地(現南四条西二丁目)向井コウ呉服店の土蔵(この土蔵は戦後まで残っていた)、また渡島通(南一条)に沿って対馬嘉三郎味噌・醬油醸造店、今井藤七呉服店、畠山六兵衛請負業店舗などの名前が並んでいる。対馬は〝土蔵造座敷住居〟を建てているが、このほかの者は土蔵倉とする。建設地は現南一条に集中し、十三年から十五年にかけて同道路沿いに土蔵が建ち並んだことを知る。「建築費貸与規則」は、結果的には札幌市街の土蔵倉建設促進に変質するわけだが、同規則は開拓使の十五年二月の廃庁とともに打ち切られてしまう。