北海道庁発足とともに硬石、軟石の掘採は民営に移行し、『北海道庁統計書』(以下統計書と略)に穴ノ沢の軟石業者とその生産量が記録されるようになる。二十一年は同年穴ノ沢での採掘許可をうけた業者四人を挙げ、同年生産量合計は八二七〇切である(第三回統計書)。また二十三年は、石狩国の軟石七万九五〇〇切、硬石二九五〇切(第五回統計書)、二十四年は、石狩国の軟石三〇〇〇切、硬石二三五六切とある(第六回統計書)。これらの石材はすべて札幌の建築用材とはいえないようだが、相当数のものが石造建築に使用されたことが次の二史料からうかがわれる。
『札幌繁栄図録』(明20・4刊)によれば、前述の水原宅石蔵を含め一三棟の石蔵倉庫を描いている。そのほか石造防火壁の一例があった。ただ土蔵は前掲の向井コウを含め三二棟を描いているから、土蔵が主体であったことがわかる。なおレンガ造は一例だけである。『札幌区実地明細図』(明26・2刊)によれば、石造倉庫を五六棟を描いている。ただ同図の描写表現はやや正確性を欠くから、多少の増減を加えて判断することが必要である。いずれにしても『札幌繁栄図録』の棟数と比較すると大変な増加である。だが同じ年に刊行された『小樽港実地明細図』(小樽市立博物館蔵)に描かれた石造家屋図と比べると、札幌のそれははるかに少ない。ついでながら小樽の石造の石材は穴ノ沢産の軟石の相当量が鉄道便で送られ使用された。