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軽川市街

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 軽川市街は札幌、小樽の中間に位置し、石狩へ連絡する交通の要衝に当たっていた。明治十三年十一月に開通した幌内鉄道に軽川停車場が十四年十一月に置かれて以来、小市街が形成され、さらに二十一年に石狩道路が完成し、市街も発展をみるようになってきた。三十一年に「交通往復及百般の人事は頗る多忙」(道毎日 明31・11・22)なために郵便局の設置(明32・3・21郵便取扱所開設)、三十三年に「夏秋両期間は盗難甚たしく村民安眠することも出来す」(道毎日 明33・8・1)という理由で、二十五年に設置となった巡査駐在所の一名増員などが要望されていた。また、この年(明33)は軽川停車場の拡張、村上藤吉が劇場(共魁館)の設立も出願しており、繁華な市街に発展していったことがわかる。三十四年九月二十七日には、手稲村消防組も設立されている。『札幌郡調』はこの軽川市街の三十四年頃の状況につき、以下のように記述している。
軽川停車場附近ハ小市街ヲナシ、小樽札幌道路ノ両側及停車場通リ人家密集シ、小売商大小十余戸、旅舎三戸、其西部ニ学校アリ、東部ニ戸長役場アリ、巡査駐在所・郵便受取所・劇場一、馬車屋四、理髪床一、湯屋一、大工拾一等アリ。

 このように順調な発展をみせていた軽川市街も、しかしながら三十九年七月十日に五〇戸余を焼失する大火に見舞われ、「細民三拾有戸ハ非常ノ惨状ヲ極メ」(手稲村史原稿)たという。日露戦争後の不況の中での市街再建は困難が多かったようであるが、漸次旧観に倍するまでのめざましい復興を遂げている。『手稲村史原稿』は四十一年の市街の状況を以下のように伝えている。
軽川停車場附近ハ小市街ヲナシテ小樽、札幌ノ道路ヲ挟ミテ人家稍軒ヲ並ベ停車場通ハ殊ニ密集シテ物品販売商大小弐十三戸、旅舎五戸、理髪業者一戸、湯屋業三戸、飲食店業三戸等アリ。村役場、小学校、郵便局、巡査駐在所、医院、其他北海道造林株式会社、神社、寺院等ハ市街中ニ散在……

 これによれば、商店などは大火前の三十四年頃よりは倍近く増えていることがわかり、また同書によれば軽川市街は一七一戸七六七人(明41・10末調査)を数えており、市街地も拡大していったようである。