戸長役場の時期の月寒村は、たとえば三十三年の戸数が六六四戸、人口が三一〇二人もあり、これは篠路村、白石村に次ぐ大村であった。「兵営附近僅少ノ商家ヲ除ク外農専業者」(豊平町史資料三)とされ、第二五聯隊の付近に商店があるほかは純然たる農村であり、農地は水田四三町八反、畑九二九町二反に及び、このように豊かな農村としての発展を続けていた。
ただその一方では、二十九年十二月に第七師団(明32・10・28歩兵第二五聯隊に改組)が設置されて以降、軍都としての性格も合わせ持つようになっていった。三十四年九月十五日に第二五聯隊の軍旗祭とともに行われた月寒村開拓三十年祭では「開村紀念の歌」がつくられ、「……清き其名や月寒(つきさっぷ)、日毎年毎進みゆき、移れる人のいや増して、農工商も賑ひつ、いとも繁華となりにける、明治二十と九のとせ、北の鎮めの軍隊を、設けられしは此土地そ、実(げ)にも誉を増しにける……」と歌われているように(小樽新聞 明34・9・19)、「北の鎮めの軍隊」の存在が大きなものとなっていた。
連隊前の月寒本通付近にはいくらか商店も建ち並び、小市街が形成されていたが、四十三年十月一日に豊平町役場がここに移転・開庁するにしたがい、本通は豊平町の中心地となり、にわかに繁華な地へと変化していった。