大字平岸村は豊平川上流域まで含む広域であったが、三十三年の戸数は三三八戸、人口は一七六五人であった。三十三年に平岸村に公有地を審議する評議員が設置された時に、平岸村では本村、中嶋、東裏、山ノ上、真駒内、石山、簾舞、農学地、盤ノ沢の各地区から選出されており(豊平村治留)、以上の九地区に分けられていたことがわかる。
三十三年当時は、「字石山に軟石採掘業ヲ営ナムノ十数戸、字真駒内ニ種畜場牧夫タルモノ十数戸ヲ除ク外農専業者」(豊平町史資料三)といわれ純農業地域であった。農地は水田二三町七反、畑七八八町九反であったが、果樹園が五〇町ほどあり、リンゴなどの果樹がすでに特産となっていた。末広愛吉、三上音槌、山際孫四郎、柳田文太郎、南部源蔵などの経営する大規模な果樹園もみられていた。
四十二年に平岸果樹組合がつくられ、大正四年の組合員数は四〇人、栽培面積は一二〇町歩に及んでいた。組合では毎年十月に果樹品評会を開催し、技術・生産の向上がはかられていた。大正五年に定山渓鉄道が村内を通過する計画が発表されると、三二人の村民は反対運動を行ったが、反対の理由は果樹に及ぼす汽車の煙害にあったというのも、いかにも「果樹の里」ならではの理由といえよう。