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大日本麦酒札幌工場

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 札幌区における近代的工場として、帝国製麻とともにあげられるのは札幌麦酒株式会社工場である。製品は、道内と京浜地方で消費されており、日清戦後も順調に生産を伸ばしていた。明治三十九年三月には日本麦酒株式会社、大阪麦酒株式会社と合併し、大日本麦酒株式会社札幌工場となった。
 札幌区における麦酒等の生産額を表4に掲げた。この表中の数値は、ほとんど札幌麦酒(のち大日本麦酒札幌工場。以下「札幌工場」または「札幌支店」と表記し、その製品は「札幌ビール」と表記)のものだが、清涼飲料は他の製造場の分を含んでいる。一応札幌麦酒の動向を示すものと考えてよいだろう。合計金額をみると三社合併前の三十八年に約一二六万円に達するが、以後減少し、合併前水準を回復するのは大正五年である。日露戦後から第一次大戦期にかけての長期にわたる低迷が顕著である。その後大戦中から戦後にかけて急増し、大正十一年に最高の約六二五万円を記録している。
表-4 大日本麦酒札幌工場の生産額
麦酒その他の酒類清涼飲料合計
生産高生産額生産額生産額
明3314,300石429,000円429,000円
 3413,592475,717475,717
 3516,797587,902587,902
 3620,449715,743715,743
 3711,199559,600559,600
 3835,8531,254,8693,220円1,258,089
 3918,246638,6162,500641,116
 4022,552789,32018,000807,320
 4114,632585,28012,000597,280
 4210,183559,3064,920564,226
 439,917466,0996,409472,508
 449,670454,4716,409460,880
 4510,169477,9628,000485,962
大 212,985610,2919,600619,891
  315,432725,304725,304
  414,167665,8647,309円673,173
  521,6291,377,7674,5991,382,366
  634,5312,969,6667,3602,977,026
  742,4523,650,8723,0007,8753,661,747
  852,7395,168,4222,47633,3505,204,248
  946,0005,980,00012,00043,5106,035,510
 1046,5715,207,56926,2005,233,769
 1154,0426,227,12425,3006,252,424
1.明治39年の麦酒生産高,生産額は4月から12月までの分。
2.清涼飲料は製造戸数1ないし4。
3.その他の酒類は「ぶどう酒」「ブランチ」「西洋酒」。
4.『北海道庁統計書』(各年)より作成。

 ところで、大日本麦酒株式会社全体のなかではどのような地位を占めているのだろうか。札幌工場生産高の大日本麦酒生産高合計に対する比率を求めると、三十九年は一六・二パーセントであったが、以後年々低下し、四十五年には七・二パーセントとなる。以後漸増し、大正五年に一〇・二パーセント、七年にはこの期間最高の一三・四パーセントに達し、以後再び低下している。日露戦後の不況期に、内地工場に比べて生産減が著しかったことがわかる。たとえば明治四十一年については、「斯く販売に於て減少せるは一般財界の不振に伴ふものにして之に亜ぐに本道漁業の不況、木材の下落を以てし加之斯(しかのみならず)業の最盛期に際して貯蓄銀行の休業ありたる為め」であるとされている(北タイ 明42・3・19)。
 札幌工場製品は、いかなる販路を有していたのだろうか。明治四十五年以降は海外輸出と道外移出の数値が判明する。四十五年は海外輸出二万八三七円、道外移出三万二三六五円であり、輸移出合わせて札幌工場生産額の一一・一パーセントをしめる(以下の数値は各年北海道庁統計書)。海外輸出額は翌大正二年の二万四四〇一円を最高に、以後大戦初期に一時途絶し七年以降復活する。むしろ道外移出の伸びが顕著であり、五年には一躍三七万七〇七五円、十一年には一三三万九六二五円を記録している。輸移出率は増減が激しいものの五年に二七・四パーセント、その後低下した後十一年には道外移出のみで二一・五パーセントを示す。安定的ではないものの道外移出は大戦期需要増の一要因であった。
 しかし大戦期の需要を支えたのは、むしろ道内需要の裾野の拡大である。大正五年十一月の北海タイムスは、札幌工場の販売高が前年の一・五倍化したことについて「主として北海道の夏作が豊穣なりし為め農家財政の豊なりしと、且つ麦酒の如き従来之を飲用するものは概して中流以上の人士と限られたるに近年世の潮流が下層労働者と雖も麦酒の飲用を以て普通事とし毫も怪まざりしに基因せるものなり」と説明している(北タイ 大5・11・12)。ちなみに札幌工場生産高から輸移出率分を差し引いたものを道内消費とみなし、人口一人当たりの消費量を求めると、明治四十五年に五・二合であったものが、大正六年に一升五合、この期間最高の八年には二升二合となっている。九年以降やや低下するものの十一年は一升七合であり、明治末との差は画然としている(各年北海道庁統計書)。
 こうした需要増大は、まずビヤホールの設置を通して行われた。大正三年には狸小路に札幌ビヤホールが開業したらしく、翌年の一周年記念大売出にはコップ一杯三銭との広告をだしている(北タイ 大4・5・1)。また北海道は札幌ビールの独占状態であったが、大正四年頃から帝国麦酒会社の桜ビールが道内に進出し、札幌では五年に南一条西四丁目に販売部を設置した(北タイ 大5・3・6)。そして狸小路四丁目に桜ビール直営のビヤホールもつくられ、朱塗の五重の塔が異彩を放ったという(札幌狸小路発展史 昭30)。桜ビール進出は結果として道内需要総体を拡大する効果があったとされている(北タイ 大6・9・14)。また「中流以上の人士」の需要も盛んで、札幌ビール会なるものが毎月開催され、六〇人~一〇〇人の「紳士紳商」が豊平館に招待され、生ビールを飲みながらオーケストラ演奏や義太夫を鑑賞した(北タイ 大5・6・21、大6・3・19)。
 札幌ビールが北海道に求めたのは、販路のみならず原料であった。醸造用原料である大麦は、札幌麦酒時代から道内農家より買入れられた。買入量は明治三十九年に一万二六三四石であった(北タイ 明40・4・3)。四十三年十一月二十日には、札幌支店主催各村麦作世話人会を開催し、会社側と各生産者が大麦買入数量について予約すること、三〇〇匁以下は買入れないこと、四十四年度買入単価は一石六円八〇銭~八円三〇銭とすることを取り決めている(北タイ 明43・11・23)。大正五年には契約(予約)一万九二四〇石、実際の買入れは減収により一万二五三六石であった(北タイ 大6.6.19)。このように、札幌支店による道内農家の組織化がすすめられたのである。大戦期の大麦必要量は約四万石であったので、不足分は関東地方、青森県に求めたようである(北タイ 大7・10・31)。
 また、札幌支店は製罎工場をももち、ビール罎を自製していた。従来は輸入ビールの空罎を東京から移入して使用していたが、輸入の減少により果たせなくなり、明治三十三年八月より製罎工場による供給が始まった(大日本麦酒株式会社三十年史)。製罎の原料も道内自給を基本とし、明治四十年には硅砂が月寒、マンガンが国縫、下野、石灰が函館、美濃、ソーダがイギリス、木炭が早来から供給された(北タイ 明42・3・21)。このように、大日本麦酒札幌工場は北海道経済に深く根をおろした存在であった。

写真-2 サッポロビール醸造工場 壜詰場