札幌における水力発電が始まった頃、前節で述べた鉄道院工場誘致問題が大詰めを迎えていた。鉄道院札幌工場は、四十年秋に谷七太郎所有のぶどう園を候補地として設立されることがほぼ決まったが、その際札幌において大規模水力発電事業を起こすことが条件とされていた。そこで北海電気とは別に「札幌水力電気株式会社」を設立する動きが起こり、区内一二の祭典区から二人ずつの委員を選出し、区民から株式を募集することになった(北タイ 明40・10・22)。さらに、二十二日の祭典区委員の会合では、計二三〇~二四〇人の委員に各祭典区の株式募集を委嘱することとされ、札幌水力電気株式会社設立は、区民運動として展開するのである(北タイ 明40・10・24)。
札幌水電の設立に伴い、北海電気は買収されることになっていた。札幌水電の創立総会は、札幌貯蓄銀行の休業により延期され、四十一年九月二十五日に行われた。資本金は七五万円で、北海電気の三倍以上となり、取締役に本郷嘉之助、山本久右衛門、大島喜一郎、鷲見邦司、石母田正輔を選出した(北タイ 明41・9・27)。山本は北海電気専務取締役、石母田は同支配人である。同年十二月末日をもって北海電気の業務が札幌水電に譲渡され、札幌水電が札幌唯一の電力会社となったのである。
北海電気と札幌水電にはどのような違いがあるのだろうか。端的にいって、北海電気は札幌区に本社を置いたものの、東京在住実業家により設立された企業であるのに対し、札幌水電は、札幌の実業家が広く札幌区民から株式を募って設立した札幌の企業であった。株数にしめる札幌区在住株主の株数をみると、北海電気は六四〇〇株中七〇二株(一一・〇パーセント)であるが、札幌水電は一万五〇〇〇株中一万一〇〇五株(七三・四パーセント)となる(北海電気株式会社 第三期事業報告、札幌水力電気株式会社 第七回営業報告書 明治四十四年自七月一日至十二月三十一日)。株主実人数でみても、札幌水電は三四六人中二七四人が札幌区民であった。祭典区ごとの株式募集運動は一応成功したとみてよいだろう。
経営方針はどうか。札幌水電も、激増する電灯需要に応じようと発電機を増設するなどの努力をしている。しかし電動機向きの電力供給(編注・以下単に電力と記すこともある)は昼間だけに限られ、夜間は電灯に使用され、電動機には供給されなかった。「何しろ只今迄は電力の不足であるのと素と電灯を目的として設立されたので思ふ様にはならない、且つ動力の供給には資本が夥しく固定され変圧器や電動器を新たに備付ねばならず夫れに僅少の馬力を供給するにも設備の費用は同一に要さるゝ」ので、要求があっても応じ難いというのである(石母田常務取締役談 北タイ 明42・12・23)。鉄道院工場誘致の条件として設立されたにもかかわらず、電灯優先の経営方針は北海電気と変わっていないのである。