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明治四十一年の休業

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 北海道貯蓄銀行は、全国でも有数の規模を誇る貯蓄銀行であった。貯蓄銀行とは、零細な少額貯金の吸収を業務とするもので、明治二十三年制定の貯蓄銀行条例の規制を受けていた。貯蓄銀行条例は、当時高利貸的性格の強かったといわれる貯蓄銀行の不健全化を防ぐために、払込資本金の半額以上を日銀に供託すること、貸付は六カ月を限度に国債、地方債担保に限ることを定めていた。しかし、あまりの厳しい条件に貯蓄銀行側は反対運動を繰り広げ、二十八年に条例は改正された。貸付に関する制限はなくなり、供託金も払込資本金の四分の一に緩和され、これ以後、貯蓄銀行は全国各地で急速に設立された(加藤俊彦 本邦銀行史論)。
 札幌貯蓄銀行(以下貯銀と略す場合がある)は札幌区に本店を置き、四十一年には支店を小樽、函館、寿都、岩見沢、上川、岩内、江差、松前の八カ所に、出張所を瀬棚に置いていた。北海道貯蓄銀行の前身は、札幌貯蓄銀行であり、二十九年三月札幌に設立された。その後三十八年三月松前銀行、江差貯蓄銀行を合併して北海道貯蓄銀行と改称し、さらに三十九年江差銀行を合併した(北海道拓殖銀行調査部 北海道金融機関沿革史)。このように道南日本海沿岸地方に基盤を置きつつ、岩見沢、上川方面にも支店を展開し、全国でも有数の貯蓄銀行となったのである。
 貯銀は道内銀行のなかで支店数は最多で、資本金は拓銀、百十三銀行、北海道銀行、函館銀行、根室銀行に次いで第六位であった(北海道庁統計書 明41)。四十一年の全国四八五の貯蓄銀行と比べると、払込資本金は全国平均九万三〇〇〇円に対して一八万五一〇〇円と約二倍であった(加藤前掲書、北海道庁統計書 明41)。支店数、資本金からみて全国でも有数の貯蓄銀行であるということができよう。
 支店は道南の日本海沿岸地域に偏っていた。これらの地域は、漁業の隆盛によりかろうじて取引を継続していたが、すでに近世までの繁栄はかげりを見せ、経済基盤は弱体化していた。四十年に名古屋地方に始まる、いわゆる一九〇七年恐慌は、翌年にかけて全国的銀行の破綻・休業という事態を惹起した。そして北海道におけるこの恐慌のあらわれが北海道貯蓄銀行の休業であった。
 明治四十一年五月五日朝、貯銀本店は「帳簿整理」の理由により三週間休業する旨掲示した(北タイ 明41・5・6)。休業期間は延長に延長を重ね、翌四十二年一月二十五日の再開まで九カ月近くにおよんだのである。貯銀の休業前後の営業状況を表17にまとめた。貯蓄預金とは、小学校児童の貯金をも含む小口零細貯金であり、道庁や区、町村の「勤倹貯蓄」指導により集められていた。預貸率の欄をみると、三十九、四十年と一気に悪化していることがわかる。三十九年に関しては、預金は増加したものの、荷為替残高の急増によって貸付残高がふくれあがったのが原因である。四十年に関しては、荷為替残高は減ったものの、貯蓄預金の大幅減と貸付金増が原因である。明治三十九年下半期の営業報告書を踏まえた新聞記事は、以下のように述べている。
……上川岩見沢の両支店は、本道本年の豊作に加へて価格の騰貴あり。之れが為め購買力の増加、諸商業の活動となり、本店と與に相当の利益を見るに至れり。尚ほ江差松前函館瀬棚の各店は、地方沿岸の薄漁なりし為め商業不振なりしも、幸ひに烏賊漁の豊饒なりし為め、十、十一の両月間資金幾分の繁忙を来し、松前瀬棚の二店は多少の利益を収め得たり。然れとも江差函館の二支店は鋭意業務に従事せし甲斐もなく、遂に損失の計上を見るに至り、本行が収め得たる利益の大半を填補するの止むなきに至れり。之れ畢竟江差銀行を合併せし結果にして……
(北タイ 明40・2・3)

表-17 北海道貯蓄銀行の営業
勘定項目明治38年39年40年41年
払込資本金190,000円270,000円182,500円185,100円
貯蓄預金493,724653,445366,683695,923
その他預金785,7101,156,9841,298,930827,224
預金合計1,279,4341,810,4291,665,6131,523,147
貸付金422,403516,026800,075837,194
割引手形463,363263,720223,0500
荷為替136,3631,162,083842,450178,739
手形小計599,7261,425,8031,065,500178,739
貸付金合計1,022,1291,941,8291,865,5751,015,933
純益金1,19519,47927,037
払込資本金利益率0.6%7.2%14.8%
預貸率79.9107.3112.066.7
1.その他預金は普通預金,当座預金,定期預金。
2.単位:円。払込資本金利益率,預貸率は%。
3.『北海道庁統計書』(各年)より作成。

道南地方でも江差支店(旧江差銀行)、函館支店の業績不振が指摘されている。とりわけ経済的に停滞しつつあった江差地方の不良債券を受け継いだことが、休業に至る原因の一つであった(北海道拓殖銀行史)。
 表18は、休業時に回収不確実とされた金額の内訳である。本支店別に貸出残高にしめる回収不確実の比率をみると、もっとも高いのは函館支店で、次いで江差、松前、本店の順であった。道南地方は、先の史料でも説明されているが、本店の巨額な不良債券はどのようなものだったのだろうか。明治四十一年九月十九日開催の貯蓄銀行普通預金者会合における預金者の質問に、整理委員の助川貞二郎が答えたところによると「札幌本店の欠損四十万八千円の大口は重谷朝明両氏事業失敗の為めにて重谷氏の抵当物件銅山三十一万円あり……」という(北タイ 明治41・9・20)。重谷は木材会社を経営していた重谷繁太郎、朝明は醸造業の朝明門吉であろう。重谷繁太郎は、四十年重谷木挽所を拡張しつつあったが、九月には新設の札幌木材株式会社に事業を引き継ぎ、以後木材業から姿を消している(北タイ 明40・9・9)。朝明門吉は酒造・販売業を営み、四十一年九月には合資会社朝明酒造を設立するなど上昇の途上にあり(日本全国商工人名録)、「事業の失敗」がいかなるものなのか不明である。ともあれ「何様同行営業の状態は純然たる貯蓄銀行の遣り方とは全く異なり放資方法極めて雑漠粗慢其回収不確実のもの少なからざるを以て……」(北タイ 明41・6・20)といわれる状況であった。
表-18 北海道貯蓄銀行の回収不確実債権 (単位;円/%)
支店名貸付金貸越割引手形合計本支店の
シェア(%)
残高不確実残高不確実残高不確実残高不確実
本店460,884361,24626,713332,946167,443820,543528,68959.9%
旭川支店71,25410,70110,7088,14480,03634,607161,99853,4526.1
岩見沢支店23,769017,3002,51441,0692,5140.3
小樽支店23,4801,1004,71007,04581535,2351,9150.2
岩内支店1,8725,385019,0543,15126,3113,1510.4
寿都支店11,1034,9946,5431,9009,3401,77926,9868,6730.9
函館支店19,23017,73049549522,58020,73042,30538,9554.4
松前支店17,43012,52917,43012,5291.4
江差支店208,803159,99515,03610,46272,61962,514296,458232,97126.4
合計837,825568,29569,59021,001560,920293,5531,468,335882,849100.0
1.明治41年9月30日現在の残高。
2.『北海道拓殖銀行史』(昭46)より作成。原資料は拓殖貯金銀行編『整理顚末』。