中正会に次いで候補者を出したのが、白米、農産、塩販売三組合であった。中正会では当初、三組合からの候補者に対しても俱楽府の幹部の調整を仰いだ上で三組合に交渉し、合同で候補者を立てるつもりであった。ところが、三組合が一〇人の予選者を一人も譲らなかったことから、両者は分裂せざるを得なかった。また、中正会の予選に洩れた者の中から予選を不公平であるとして、新たに一派を構える者が現われた。それが元同志会派のメンバーであった。
同志会の基礎となっていた実業協会は多くの俱楽府員を会員に持ち、三十二年の憲支部との対抗関係をめぐっては、俱楽府が政治活動に利用されることに歯止めをかける役割を果たした。そして、俱楽府と政党との結びつきに終止符を打つべく俱楽府の役員選挙では、実業協会派が大勝を納めていた。このように、政党との関わりにおいては俱楽府を保護する立場にあった実業協会が、三十四年に同志会へと組織替えしていた(第一章二節三項)。同志会は三十七年には解散していたが、その重鎮であった土屋轍のもとに、中正会の予選から洩れた者が一派を構えたのである。銅鉄組合の輿石太郎、薬種組合の山形卯三郎、古物商組合の皆川浦吉はいずれも元同志会員であった。
銅鉄組合、薬種組合、古物商組合から成る元同志会派は、白米、農産、塩販売三組合に連合案を持ち込み、商業組合派が成立した。こうした動きの煽りを受けて、各商業組合が次々と別に候補者を立て始めたために選挙戦はいよいよ激しくなった。候補者を出した商業団体は、白米、農産、塩販売、銅鉄商、古物商、呉服太物、質屋、醸造業、履物商の九つの組合と、薬種商、木材商、菓子商、運送業、乾物商、薪炭商の六つの団体、合わせて一五業種にものぼった(北タイ 明40・2・10)。また、中正会の安部腰次郎が幹事を辞任して質屋商組合の候補者になっていることは、この選挙が半ば商業組合同志の利権獲得をめぐる選挙戦になっていたことをうかがわせる。
元同志会派には各種商業組合の他に、東方和合会も含まれていた。東方和合会は祭典区第七区(創成川以東)の有志で構成され、「区政其他に付きて常に東方活動の中心とな」(北タイ 明45・1・18)っていた。同会からは第一回会議所議員に、本郷嘉之助、奥泉安太郎、中村久作、塚島由太郎、藤沢栄蔵が当選している。