手稲と石狩の交通路は、明治二十一年に軽川花畔間の排水渠の開削とともに作られていた(現在の道道石狩手稲線)。この連絡道路は手稲と石狩間の交通上重要で、新聞の記事から四十年代には馬車輸送の様子をうかがうことができる。四十三年四月二十二日、融雪後の営業開始を知らせたと思われる新聞記事がある。それには十九日に往復開始とある(以下北タイ 明43・4・22)。四十四年七月十二日軽川石狩間の馬車運賃値下げ広告では、軽川石狩間の五〇銭を三〇銭へ、石狩茨戸間を二〇銭に値下げした。この広告は石狩馬車組合の名称で出されている(明44・7・12)。この区間は大正十一年に馬車鉄道が敷設されている。