二十世紀に入って新たに登場した交通機関の代表はやはり飛行機である。ライト兄弟の成功以来日本でも注目し、飛行機の導入をはかりはじめた。
大正二年、北海タイムス社が共催する日本飛行協会主催の飛行大会が計画された。会場は札幌競馬場、八月二十三~二十五日の三日間行う予定であった(以下北タイ 大2・7・21)。会場は北一〇条東一丁目札幌五番舘興農園耕地内、九月七~九日に行われることに変更された。その広告には、事務所は隼号飛行事務所、イベントの名称は飛行機隼号飛行大会、入場券は三〇銭、学生と軍人は半額、販売所は南一条西四丁目中原新聞店とある(大2・9・2)。九月四日までに組立て(大2・9・5)、五日に試運転を行い順調であった(大2・9・6)。七日当日は試験地走の後、十一時過ぎ「地走すること約三十米突(メートル)にして機体は悠然地を離れ、三十二三度の角度を描いて約二十米突飛行し、高さ三十尺に及びたりと見る間に朝来最も寒心したる突風が秒速十三四米突の速度にて襲ひ来り、機は見る間に前方昇降舵を地面に向け機は逆立となりて落下しぬ」(大2・9・8)となった。
この飛行大会は、この落下で機体破損し、十三~十五日に延期された(大2・9・8)。しかし結局十三日荒天で延期(大2・9・14)の後十四日に地走試験で小破損し、修繕の後六時二十分「地走すること約三十米突にして尾部高く揚がると、見る間に機体は悠然地を離れ高さ約四米突距離二十米突を飛行せるも、主翼は遂に気流に乗る能はずして着陸し、同時に衝動にて上翼左方の翼骨を切損し当日の飛行を中止したり」という。十五日再度試みる予定であったようだ(大2・9・15)が、新聞紙上には掲載されてない。
この直後十月十八、十九日、月寒練兵場で奈良原式飛行機鳳号の航空大会が開催されることになった(大2・10・14)。予定の第一日目である十八日は実施されず、十九日が初日となった。操縦者は白戸栄之助で、「札幌の空中征服」という見出しで「地走約五十米突にして地を離れ、三十米突の高度にて約一哩に亘る大円を左方に描いて出発点付近に着陸したり」(大2・10・20)と大成功のようであった。この日はその後二度の飛行、二日目は延期されて二十二日二度の飛行が行われた(大2・10・23)。
この後、野島銀蔵がカーチス型飛行機早鷹号で、三年九月十九日の予備飛行、二十一、二十二日に本飛行をおこなった。その新聞記事の見出しだけを紹介しよう。「早鷹天空に雄飛す/民間飛行家野島銀蔵氏=飛行大会の予備飛行=カーチス型複葉」(十九日、大3・9・20)、「札幌の大飛行/昨日の早鷹号飛行大会=野島氏の大胆なる操縦=札幌上空を縦横に飛翔す」(二十一日、大3・9・22)、「強風中の飛行/札幌飛行大会第二日=昨日の早鷹号飛翔=野島氏の大冒険」(二十二日、大3・9・23)。
札幌での飛行は、大正五年のスミスによる飛行が、失敗して負傷したスミスへの善意の治療もあり、有名である(札幌市史 政治行政篇)が、札幌ではそれよりも二、三年早く飛行機の飛行大会は開かれていたわけである。