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日露戦争と札幌

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 北海道の開拓や札幌本府の建設は、対ロシアとの北方警備、〝北門の鎖鑰〟として推進されてきた点が多いといえる。それが日露戦争という現実の問題となり、さらに世界の強大国との国の存亡をかけた開戦は、様々な影響を札幌にも与えることになった。
 月寒には第七師団歩兵第二五聯隊があり、〝皇軍〟の膝元とあって銃後の支援活動は熱烈を極めることになったし、全国各地で展開されていたと同様に献金、国債購入などの軍事費の支援、慰問袋・毛布などの寄贈も活発に行われ、戦争後援団体も相次いで創設されていった。この時期は戦時色一色に塗りつぶされ、戦況に一喜一憂の毎日であったといえよう。特に諸戦での戦勝祝賀会は盛大に挙行され、仮装行列まで繰り出す賑やかさであった。日露戦争は「忠君愛国」という国民統合に果たした役割には大きいものがあった。
 戦争は市民生活にも大きな影響をもたらしていた。開戦時は明治三十六年以来の不況下にあり、開戦により物資の輸送力は落ち、物価の高騰の元となった。札幌村の玉葱、平岸村のリンゴもしばし販路を絶たれ、栽培農家は困窮することになった。数々の献金、慰問金、見舞金、そして次第に重圧となってくる増税による経済生活の圧迫、数々の兵士送迎、遺家族の慰問、葬儀、宗教団体主催の祈祷会・追悼会、様々な労力奉仕などによる日常生活の混乱がみられ、日清戦争時とは異なった〝総力戦〟を強いられることになったのである。
 戦後の傷跡も大きかった。終戦の講和条約にも「屈辱条約」として世論の反対は強く、道民大会が開催されて条約の撤回が叫ばれ、得ることの少なかった戦争に人心は虚脱状態に陥っていた。戦死者の遺族、傷痍軍人の救護も社会問題となっており、折からの大増税は市民の台所に大きな負担としてのしかかっていった。
 それでも講和条約により樺太を領有することになり、北海道の経済には測りしれぬ恩恵を与えることになったが、札幌も戦後はめざましい工業・商業の進展をみるようになり、名実ともに道都としてふさわしい発展を遂げる契機となったのである。その一方では社会の矛盾も激化しはじめ、様々な問題・争議も生まれてくる。