出征軍人家族の救護については、札幌支庁で軍人家族救護会の設立を町村に通牒し、先に紹介した北海道尚武会、札幌奉公義会をはじめとした各村の奉公義会、各種婦人団体、町内会組織などでも救護にあたっていたが、実際には不十分なものであり、唯一の働き手を失った留守家族では困窮するところも多かった。新聞に報道されたそのような実例は第七章一節でも紹介するが、ここでも三例ほど紹介しておくことにする。
北七条西二丁目の未亡人の場合、九人の子供がおり、そのうち上三人の男子は出征中であったが、岩見沢の炭鉱会社に働く二〇歳と日々魚売りをする一六歳の男子の収入で生活をしていた。しかし「少額の収入」で「不如意勝」であり、二五、六銭の区税滞納により財産差押えの状況に追い込まれ、札幌奉公義会に救助を要請していた(北タイ 明37・9・17)。
北四条西三丁目に居住する後備隊として召集された兵士の家族は母(六〇歳)、妻(二九歳)、三人の男子(一四歳、一〇歳、七歳)。妻は毎日製綱所で働き、日々一〇銭内外を得るも五人を養うには足りず、札幌奉公義会から毎月一円五〇銭の救助料を受けてもなお不足し、北海道尚武会に救助を出願していた(北タイ 明38・3・21)。
北八条東一丁目の兵士留守家族は年老いた両親、妻(二六歳)と五人の子供の八人であった。父と妻が製麻会社の職工となり、わずかにその日暮らしの生計をたてていたが、不幸にも妻、男子(一〇歳、三歳)、女子(二歳)の四人は共に腸チフスにかかる。四人は札幌区立病院へ無料入院が許されたが、父は仕事を休み看護のために付添い、母は残された二人の子供の面倒をみなければならないという「惨状実に目も当てられぬ程」であった(北タイ 明38・4・28)。
このような実例はいずれも低所得層の兵士の家で起こっており、大きな社会問題となっていた。