『小樽新聞』(明44・7・5、21)によれば、日露戦争による北海道在籍者の戦病死者は一一八〇人、遺族数は一一七九戸といわれている(札幌区四二戸、札幌郡九七戸)。また第七師団では戦争による傷病・疾病数は、
現役 傷病二二人 疾病一八人
予備役 四二 三九
後備役 三七 一六〇
補充兵 一二 三八
となっており、合計で三六八人を数えていた(北タイ 明38・12・15)。さらに、「廃兵」と呼ばれた傷痍軍人は全道で三二四人(札幌区一一人、札幌郡二三人)であり、戦後はこれらの遺族と傷痍軍人の救護が問題となってきた。
たとえば愛国婦人会では、軍人遺族ならびに傷痍軍人の家に門標を立てて、近隣に救護を呼びかけるとともに、三十八年十二月九日に戦死者遺族廃兵救護の演劇会を札幌座にて開催した。当日は二〇〇〇人の観客を集め六〇〇円の利益をあげ、当時の区内傷痍兵一五人、戦死者遺族三六戸のうち三〇戸に五円ずつが贈られ、残金は預金にまわされている(北タイ 明38・12・13)。なお、三十九年五月には区内の傷痍兵は九人、戦死者遺族は三八戸、生活困難者一〇人とされ、やはり同会から二円五〇銭が贈られた(北タイ 明39・5・25)。
その他に宗教団体からの贈呈金もあったが、しかしながらいずれも単発的なものであり、恒常的な国家的な福祉制度は存在せず、遺族や戦傷者は生活に困難をきわめることになった。戦後に困難をきわめた実例を「憐れなる軍人家族」と題した新聞報道から二例紹介しておこう。
南五条東二丁目居住の歩兵一等卒は、妻と二人の子供があり、日雇業で生計をたてていた。召集中は札幌奉公義会・東方婦人講・北海道尚武会・篠路奉公義会より合わせて一〇円の扶助を受け暮らしていたが病気にかかり、札幌病院へ無料入院していた。夫の帰還後は扶助、無料入院も打ち切られ、夫は日雇の稼ぎで生活費・入院代を工面していたが、妻は死亡しても葬儀費用にこと欠くあり様であった(北タイ 明39・5・11)。
北一条東二丁目居住の歩兵二等卒は、母と姉との三人家族であるが、左足を負傷して帰還し仕事もできない体であった。姉が経木真田を編み日に一四銭を稼ぎ、それでやっと生計をたてる苦しい生活ぶりであった(北タイ 明39・5・11)。
後者は戦傷者の家庭の例であったが、大正五年六月に「一定の職業を与へ後顧の憂なき事」を目的に、社団法人札幌廃兵団の設立がはかられている(北タイ 大5・6・6)。