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札幌の職工数

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 札幌区内外の職工数は、明治三十一年末では一六工場において一三七一人(男七二六人、女六四五人)であった。それが日露戦争をはさむ諸工業の勃興により次第に増加し、四十四年には区内だけで四七工場一八六二人(男一〇三四人、女八二八人)になっていた(札幌区統計書)。このうち、大規模工場である帝国製麻札幌工場(七九一人)、大日本麦酒醸造工場(九五人)、同製壜所(一一五人)で半数以上の職工数を占めていた。五〇人以上の職工を抱えた工場は、文栄堂活版所(六〇人)、北海タイムス工場(五四人)、名取製糸場(五八人)のわずか三工場に過ぎなかった。以上の六工場を除外すると職工数の平均は一六・八人であり、大半が小工場であった。
 また別に、四十三年五月には職工を一〇〇〇人以上も擁するようになる苗穂鉄道工場も完成し、職工は増加の一途をたどっていた。しかしながら、職工は会社・企業の一方的な支配下におかれ、弱い立場の労働者の保護と結束が必要な時期にきていたといえる。この時期の労働運動を促進したのは主に社会主義者であったが、政府の厳しい弾圧と取締りにあって、職工たちの組合組織、労働運動の展開はいまだみられず、それらは次期をまたなければならなかった。