また、拓北農場の支場となってからの状況は、「石狩国札幌郡篠路村にあり、総面積千五十町歩なるが、同農場が久弥男の経営に移りしは大正元年にして、本支場中の最古のものなり。而も同場は前所有者が明治二十四五年頃より開墾に着手したりしを以て、既開墾地八百五十余町歩に上り、諸設備完成に達し、産業組合の組織整ひ、開墾事業に範を示す所なり。現今小作人百戸あり」(北タイ 大7・8・24)と記されている。この記事にみえる産業組合とは、大正四年五月に設立された篠路農場購買販売組合のことで、農場内の横新道、興産社、大野地、釜谷臼の四部落の約一〇〇人が加入し、陸軍糧秣廠への燕麦納入を主目的とした。
大正九年の争議発生直前までの篠路支場の状況は、ほぼ以上のようであった。なお、小作人数は二年の一〇一戸が七年には一〇〇戸とされているが、別の文献には一〇七戸とあって(北海道産業発達史 前編)、正確な戸数ははっきりしない。いずれにせよ一〇〇戸弱であったと思われる。