善太郎が帝室林野管理局等に御料地払下げの申請を行ったのはいつ頃か明確ではないが、事件の起こる「二、三年前」(同前)で、大正九年頃のことであろう。そして十一年初頭になって次の記事のように、正式にそれが認可されたのである。「予て出願中なりし丘珠村御料地は故許士泰氏が明治初年に於て拝借開墾を了したものなるが今回御料地払下規定により嗣子善太郎氏に払下の許可指令ありたりと」(北タイ 大11・3・8)。正確には御料地の面積は四八町歩で、その払下価格は三万二八七七円であった。
ところが、この決定に不満を持った小作人たちは立ち上がった。それは、「自ら耕作しない管理人ではなく、自分たち小作人に払い下げられるべきだと考えたのだ。小作人の中で、当時、札幌村の中で何人もいなかった農産物検査員の多賀源蔵が代表となって大正九年東京に直接掛け合いに行った」と『東区拓殖史』は述べている。ただしこの引用文中の大正九年というのは、『北海タイムス』が報じるように十一年の誤りであろう。