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信愛会の結成

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 ともあれ、九年六月のこうした事件が、十一年の争議の前提を形成していたことは、冒頭に引用した四月五日付の『北海タイムス』記事中に、「大正九年中より札幌郡丘珠村御料地四十八町歩の払下説が伝はり」とある点からも明らかであろう。この「払下説」を耳にするや、小作人一七人は信愛会という団体を組織してそこに全員が結集し、「小作名義人」である善太郎ではなく、自分たちへの払下運動を展開したのである。まず運動資金として一〇〇〇円を醵出し、多賀源蔵ほか二人の運動員を選んで帝室林野局への出願を行った。このような小作人側の動きを察知した善太郎もすぐさま林野局に申請し、結局は十一年二月八日付で善太郎への御料地払下が許可されたのである。この間の事情について、『東区拓殖史』には次のような記述がある。
 古老の話によると、彼ら(編注・多賀源蔵等)の主張は認められたという。二十年の年賦払いという条件で。しかし、源蔵を待っていたのは、警察の留置場だった。源蔵の子、徳次郎さん(七十八歳、白石区菊水六丁目)は「一カ月ぐらいほうりこまれていたでしょうか。当時は、小作人が何か事をおこすなんていうことは考えられる状況ではなかったんですよ」と振り返える。今度は善太郎、自らが所管の窓口、帝室林野局または東京に行き、代金は即納ということで話をつけ、払い下げは善太郎に変更された。この事件で多賀源蔵ら何人かの小作人は、土地を追われたり、減地されたりする処分を受けたという。

 このように、多賀徳次郎側の記憶によれば、一度は小作人への二〇年賦での土地払下が決定したが、代金を「即納」するとした善太郎の巻き返しで変更になったというのである。しかし、明治初期からの三〇年以上に及ぶ許士泰、善太郎親子二代の御料地の管理という実績を、帝室林野局の側が配慮したというのが実態ではないだろうか。
 この決定に対して小作人側は、多賀のほかに北脇林蔵、泉野和平の二人を代表に選んで上京させ、再度宮内省等への運動を行っている。その際に注目すべきことは「東京方面よりブローカーとして旭川御料地払下運動に同地に到れる堀清、横田星一両名に(争議への支援を)依頼し」(北タイ 大11・4・5)ていることである。