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非戦運動

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 独立教会の牧師宮川巳作は、信仰に基づく非戦論を教会員に語り、さらに『平民新聞』にも非戦論を発表した。
   真の愛国         宮川巳作
 人生の盛衰、国家の興亡、皆其の依って来る深き原理の存するもので、武力や策略の如何ともする所では無い。我等にとっては、日本国は最も愛すべき者の一つであるに相違ないけれども、乍併之とて決して愛すべき者の最後では無い。愛すべく尊むべきは正義、人道真理であって、之を無視して蹂りんしてまでも此国を愛しなければならぬと云ふは少しもない。斯くて正義、人道、真理の敵として戦争の如きは無きが故に、我等は如何なる場合にても極力戦争に反対し、之を排斥する事に務めなければならぬ、内に鉱毒を漲しつつ外に無意義の国威を伸長しなければ、大和民族の将来を全うする事が出来ぬなど思へる、智者愚者の心の滑稽さよ、元老閣臣と政治家とに誤まられつつある愛すべき日本人よ、懲すべきはロシアにはあらで、元老と閣臣と政治家とに代表せらるる日本人である事を知らざるか。我等の愛する此国を今の亡国の淵に導き、我等の愛する隣国に百年の禍根を植えつつある彼等は、真に膺懲すべきの限では無いか。
(平民新聞第七号 明36・12・27)

 美以教会でも牧師の高北三四郎、有力会員の飯田雄太郎、石沢達夫が非戦論の立場をとり、佐藤昌介と対立した。組合教会では桟敷新松が非戦を主張したが、孤立していた。
 三十七年五月八日、円山は花見客で賑わっていた。この花見客の間を、『平民新聞』や社会主義文献を売り歩いている三人の若い女性があった。竹内キミ山田ミツらであった。山田ミツはこの社会主義伝道の体験を書き綴り、平民社に送った。この文が、「まるやまの花見」と言う題で『平民新聞』第二八号(明37・5・22刊)に掲載された。幸徳秋水の「此人々が、人類同胞に対する大なる愛を発揮して、日本の婦人社会主義の卒先者たる名誉を荷はれることを望みます」と言うコメントがついていた。