明治三十九年二月、日本社会党が結成された。しかし、キリスト教社会主義の立場をとる人々の多くは、これに参加しなかった。
アメリカから帰ってきた竹内余所次郎(明37・8渡米、38・11月帰国)は、日本社会党結成大会(明39・2・24開催)の座長を務め、評議員となった。しかし、キリスト教や禁酒運動からは離れていた。
札幌の社会主義者のうち、キリスト教社会主義者は日本社会党に加盟しなかった。札幌の社会主義者で社会党に加盟したのは、麦酒会社の製瓶工であった山本俊馬と木材業者の忍鶴太郎であったが、忍はすぐ離党し旭川に去った。
日本社会党は四十年二月十七日、第二回大会を開いたが、竹内は再び座長を務めた。この大会で、幸徳秋水の直接行動主義と、田添鉄二の議会主義とが対立したが、竹内は幸徳の意見に賛成であった。だが座長のため、採決には加わらなかった。
日本社会党は二月二十二日、結社禁止を命ぜられた。