大正四、五年頃になると、札幌でも労働者の中に社会主義思想が影響をもってきた。友愛会札幌支部の会員(特に鉄道労働者)の中にも社会主義的労働運動に関心を持つものが出てきた。堺利彦が出している『新社会』の読者となる者も出てきた。堺利彦に励ましの手紙を送る者もあった。物価騰貴が始まり、労働者の生活が苦しくなり、ごみ集めの馬車追いをはじめとして、いろいろな労働者が争議を起こした。
日露戦争の頃、熊本の第五高等学校で大川周明とともに社会主義運動を展開していた木下三四彦は、その後転向し、大正期には札幌で弁護士を開業していたが、労働者が社会主義の影響を受けることを恐れ、社会主義撲滅運動を展開した。阿部宇之八も社会主義には反対で、反対意見を新聞や雑誌に発表した。
大正中期に復活してきた札幌の社会主義運動にみられる特色は、朝鮮人労働者が増加してきたため朝鮮問題が視野に入ってきたことであった。しかし、そのかわり明治の社会主義者が視野に入れていたアイヌ民族問題が視界からはずれてしまった。この時期の社会主義者で、アイヌ民族を視野に入れていたのは安達正太郎(小樽の人であるが、札幌で弁舌をふるった)など、ごく少数の人びとであった。