このようにアイヌ実業補習学校の円山村設立計画は順調に進んでいた。同会は明治三十四年五月、新たに「北海道旧土人保護法」に基づくアイヌ小学校を付設する計画をたてた(北海道旧土人救育会虻田学園報 第二号)。これに対して内務省北海道課長白仁武から、アイヌ小学校の円山村設立は「北海道旧土人保護法」に違反するという見解が示された。白仁は同法の起草者である(竹ヶ原幸朗 近代日本のアイヌ「同化」政策)。その第九条は国費によるアイヌ小学校の設立を規定した条文で、設立地を「北海道ノ旧土人ノ部落ヲ為シタル場所」に限定している。白仁はこの条文を根拠に「アイヌノ現住地ナラザル札幌付近ニ設置スルハ法令ノ条項ニ背クモノナレハ不可ナル」(北海道旧土人救育会虻田学園報 第二号)と述べ、計画に反対した。一部の役員から「此際帝国議会ニ保護法ノ訂正案ヲ提出スヘシ」(同前)という強硬意見も提出されたが、「衆議ニ依リ一歩ヲ譲」(同前)り、アイヌ小学校の円山村設立を断念した。この決定によって、同会のアイヌ実業補習学校の円山村設立計画も白紙撤回となった。こうして札幌区民の理解と協力を得た「北海道旧土人救育会円山学園」構想も幻で終わった。
その後、同会は三十四年八月、新たな設立地として胆振国虻田村字フレナイ(現虻田町)を選定した。そして、三十七年二月に開校の運びとなったが、それは「北海道旧土人救育会虻田学園」と名づけられた。小谷部に大きな影響を与えたハンプトン農工学校やハワード大学と同様に、ボーディング・スクール制(全寮制学校)を採用した。これがアイヌ民族の青少年をコタンの生活から切り離し、民族の文化の否定のうえに成り立ち、それを加速していったことはいうまでもない。