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あおられる愛国心

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 明治三十七年二月十日のロシアへの宣戦布告の号外に接した札幌の人びとの様子を新聞は次のように報じた。
一昨夜我社の第二号外一大快報の札幌市中に配達さるゝや札幌区民の人気俄かに引立ち昨朝第一号外を発するに及び南一条通り南二条通りを始め各町々は過半以上国旗を軒頭に掲げ商家の小僧御客の顔を見て品物の名を聞くより先に戦争は如何ですかと問係(ママ)けるなど何事も手につかす本社の門前及一久星角の掲示場には人山を築き動きも為らぬ混雑を極めたり
(北タイ 明37・2・11)

 このように札幌の人びとは、新聞の号外に熱狂し、仕事も手につかぬ有様であった。
 街中が戦争熱に浮かされていた一方、北海道庁長官園田安賢は二月二十日道民の戦意高揚と国債募集についての要望を訓令で出した。これを受けて札幌区常設委員会は翌二十一日、国庫債権応募の件を決定、三万円を醵出することとした(北タイ 明37・2・27)。ちなみに、三月十日現在の全道の国債応募額は八六〇万八七二五円の巨額にのぼった(北タイ 明37・3・12)。
 国債の勧誘の意義に、「愛国」が説かれ、「奉公」がすすめられ、人びとはその乏しい財産の中から国へ捧げた。政府は持てる財源のほとんどを軍事費に投入しなければならなかっただけに、留守家族の救護をはじめ、不足する軍事物資を人びとの献納にあおいだ。このため、政府を助けるべき協力機関として、国民後援会帝国軍人後援会などさまざまな諸組織が結成された。札幌でも札幌区長加藤寛六郎の発案で、三十七年三月十日、出征軍人軍族の遺家族救済のために札幌奉公義会が発会している(北タイ 明37・3・12)。また、十月から十二月にかけては国民後援会の嘱託を受けて出征満州軍へ毛布の寄贈が積極的に行われ、この時札幌区と村々を合わせて一五〇〇枚の毛布が集められた(北タイ 明37・12・1)。
 そして、北海道庁、各支庁、各区役所が音頭をとって恤兵金を募り、各諸団体を通して献金、軍資献納が熱心に行われた。このため人びとは、こうした恤兵活動に協力させられるだけでなく、国債への応募、勤倹貯蓄に努めることが「愛国」の証しとして強要された。
 当時の新聞は、小学生や貧しき人びとまでが、政府の思うがままに献金する姿を「愛国」の証しであるかのように、以下のように「美風」と伝えた。
〇感ずべき女生徒 月寒小学校二三年生加藤室谷の両女生発起となり別項の如く金八十三銭を上川郡近文なる軍人遺族山口方へ本社の手を経て送金したるは感ずべし
(北タイ 明37・11・26)
〇戦時貯金規約 札幌中学校にては今回戦時貯金規約を設け生徒に毎月費す所の学資約十分の一を節約せしめて郵便貯金となさしめ一は以て国債応募同一の志を成さしめ一は以て勤倹貯蓄一は美風を養はしむと云ふ尚ほ其応債良好なるに於ては平和克復後も其の習慣を継続せしむるとのことなり
(北タイ 明37・3・19)

 小遣いや学資を節約しての献金、貯金とはいっても、その内容は親への強要であった。戦時協力体制は、こうして子供から大人まで巻き込んでいった。日清戦争と異なり日露戦争は、日本の国力をすべてかけた戦いであっただけに、激しい「愛国」の嵐が吹きすさび、すべてが戦争へと向けられた。人びとは戦争の動きに敏感に反応し一喜一憂した。