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職業構成の変化

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 明治四十二年(一九〇九)三月一日を期して、札幌区は区勢調査を実施した。その目的は、現在人口統計資料をはじめ、施政材料を得て行政施策の基本の材料を得ること、すなわち生活事実の変化の把握にあった。調査項目のなかには、「職業名およびその地位」といった項目があり、明治末期の札幌区の職業構成を把えようとしているのが窺える。
 ところで職業別人口では、大変興味深いデータが明らかにされた。たとえば、本業とする職業で一〇〇人以上が従事するもの五五種のなかで、一位から一〇位までを挙げると、日傭稼一三七四人(一〇〇〇人比六一・〇四)、官公吏員一二六三人(同五六・一一)、農業七九八人(同二五・四五)、教育に関するもの七五七人(同三三・六三)、大工七〇八人(同三一・五〇)、荒物販売六九四人(同三〇・八三)、その他の有職者六八五人(同三〇・四三)、鉄道業六八四人(同三〇・三九)、麻糸製造業六七三人(同二九・九〇)、衣類その他裁縫業六三九人(同二八・三九)となっていた。日傭稼がもっとも多く、官公吏員がこれに次いでいるのも当時の札幌の実態を端的に示しているのではなかろうか(札幌区区勢調査研究)。
 第一次世界大戦による日本への影響は、財界の不況となり、やがて一般労働者へその影響を広げていった。大正十年(一九二一)三月、札幌商業会議所による各種労働賃金調査によれば、次のようであった。
日傭人夫男 一円八〇銭(女八〇銭)
植木職   二円四〇銭
大工    二円八〇銭
左官    三円
木挽普通  二円二〇銭
鳶職    二円
(北タイ 大10・4・13)

これはもちろん日給である。実際日傭といっても広範囲で、日給一円くらいで働いているものも多く、全般的に前年来の賃金に比較し低下していたという。これに反して、諸物価の高騰は著しいものがあったので、なかでも七年の米価の高騰は、日傭労働者の生活をおびやかしたことはいうまでもない。
 明治三十年代から札幌の豊平橋下流の堤防地内には、前述の日傭労働者でも、さらに都市下層に位置する貧困者が藁小屋を作って居住するようになり、小聚落さえ形成されていた。