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製麻女工

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 日清戦争後大幅な事業拡張を行った北海道製麻会社は、札幌区内で最も多くの女工を抱える工場であった。しかし、女工の労働条件は明治四十年、会社が日本製麻会社と合併して帝国製麻会社札幌支店となるまでは、けっして評判が良いとはいえない。三十三年には、本州から前払金で雇い入れた職工一〇〇人ほどのうち半分以上が引率途中に逃走したり、残りも待遇の悪さに出社拒否するなど、結局帰りの旅費を渡して帰国させたという(道毎日 明33・7・18)。三十四年には、女工が低賃金のため困窮し、「密売淫」に走ったといった記事さえ新聞に載っている始末である(道毎日 明34・2・6)。
 それでも三十三年末の職工数は三二二人、うち男工四七人、女工二七五人といった具合に女工が八五パーセントを占めていた。この職工たちによる生産高は、生麻布二四九反(代価一九六六円二一銭九厘)、晒麻布五五三反(代価三四〇六円七九銭二厘)、麻帆ズック等二万五六六三反(代価二八万四二九〇円七七銭四厘)その他麻織物八七八反(代価五四〇五円九〇銭六厘)、合計二万七三四三反(代価二九万五〇六九円六九銭一厘)(道毎日 明34・2・6)と、まさに女工によって支えられていたといえよう。
 会社側は、職工の労働意欲を高めようと三十四年十一月からは、従来の日曜休業を廃止して五・十五・二十五日のみを休日とし、給料を勤勉度に応じて増給していく方向にでた。すでに職工数は、男工三〇〇人、女工九〇〇人の合計一二〇〇人になっており、一日の生産高も製麻六〇〇〇斤、機織一〇〇反を見込んでいた(北タイ 明34・11・13)。ところで、製麻の製品の主な販路が陸海軍・逓信の各省といった方面であったことから、三十六年の実業界の不振はすぐさま人員整理に追い込まれ、男工五〇人、女工一八〇人もの解雇者を出した(北タイ 明36・8・6)。しかし反対に三十七年の日露戦争勃発に際しては、戦時用品製造の需要が急増、同年十二月一〇〇余人の女工を採用して会社はフル操業に入った(北タイ 明37・12・28)。
 日露戦争後の四十年七月、会社は日本製麻と合併して帝国製麻会社札幌支店となった。やがて四十二年からやっと職工の待遇改善が着手され、従来の女工に対して行ってきた外出禁止、書簡の検閲、強制貯金の引渡不履行といった労務管理方針を改めた(北タイ 明42・4・13)。そして勤務時間は朝六時から夜六時まで(うち昼食四〇分、九時、三時各一〇分ずつ休憩)で、夜業は疲労が激しいことからやむを得ない場合のみと改めた。さらに福利厚生部門が大幅に改善され、寄宿舎構内に病室を新築、裁縫所、髪結所を設け、裁縫・家事の教師を雇って行余学校(こうよがっこう)を開校し、夜七時から九時まで習うことができた。また幼児を連れて出勤する職工のために工場内の一室を託児室とし監督者を置いて保育も行った(北タイ 明42・4・11)。
 女工の出身地も、従来の北越・九州地方よりは東北地方出身者が多くなったが、女工になった理由の多くは嫁入り前の見習いであったり、結婚費用を得るためが多かった。
 企業内学校である行余学校は、働きながら無料で学べるといった女工引止め策でもあったが、四十三年にはじめて卒業生を出した。その式で合唱した「社歌」には次のような歌詞が盛り込まれていた。
(四) 陸に兵士を憩はする、幕も我織るあさ布ぞ、
   道に信書を運ばする、袋も我織る麻布ぞ、
   祝へや国の万歳を、歌へや我社の万福を
(五) 輸入を外に防ぎつゝ、輸出を内に殖すべき、
   北海道の特産は、唯我亜麻の糸布ぞ、
   祝へや国の万歳を、歌へや我社の万福を(一~三略)
(北タイ 明44・4・17)

北海道の特産品亜麻糸が国を富ませ、国の力を世界に誇示せんとの意図が明らかである。
 明治末の製麻女工は、約七〇〇人(うち通勤四〇〇人、寄宿二八〇人)、年齢は一六歳以上となっていたが、父母の要請で一四歳の者もいた。寄宿舎は一室四、五人、賄付きで、一日一二銭五厘でうち一銭五厘は会社が負担した。賃金は、日給一八銭から三五銭のほか請負仕事の工賃がプラスされるので、女工の多くが会社の天引き貯金をし、また郷里の親元へ送金していた。休日は、大祭日と日曜日は交代で休んだ。健康状態はきわめて良好とされていたが、呼吸器系の患者が六、七人くらいもいた。また夫婦共働きの者へは社宅が提供された(北タイ 明44・2・16)。
 しかし、明治末頃から官庁や銀行、企業が女子事務員を採用するようになり、第一次世界大戦のつかの間の好景気と博覧会景気は女性の職域をさらに拡げた。このため製麻会社は、女工獲得に苦慮、月収一七円以上で女工を募集したが応募者は少なかった。表20は、明治四十二年から大正九年までの製麻会社札幌工場の男女別職工数を示したものである。大正五、六、七年と減少しているのが知られよう。製麻会社が福利厚生面で女工の獲得をねらっても工場内の労働環境は劣悪であった。新聞記者は工場のルポルタージュ記事で、「その音響といったら百雷が一時に落下したかと思われる位、耳をつんざく様、人の話声などは一向に聞こえるものではない(中略)いくら慣れても朝の六時から晩の六時までこの中にいては頭痛がしてくるであろう」(北海道報 大7・5・13)と紹介する始末であった。そして、大正十年段階の寄宿舎女工たちはといえば、二三〇人くらいが十何畳の部屋に八人ずつ起居し、朝昼食は麦飯、夕食にたまに米飯が出た。おかずは茄子の油いためや鰈の煮付けなど何か一品に漬物で、食費月三円であった。小学校教育を受けていない者は行余学校で学習ができ、小学校を卒業した者には修業年限三年の裁縫学校程度の専修科で学べた。女工の出身地は東北出身者が大部分であり、うち半分は宮城県出身者であった。女工になった理由は、物質的貧困のためが圧倒的で、親あるいは本人が四、五十円から一〇〇円の前借があった。契約期間は三年で、満期勤めてはじめて帰郷の旅費が会社持ちとなった。賃金は熟練者で月二〇円前後、食費三円を払い、残りを家への送金あるいは天引き貯金にあてた(北タイ 大10・10・4~6)。このように製麻女工は、明治末の会社の合併後多少勤務条件や福利厚生面が改善されたが、依然として前借金付きの「カゴの鳥」同様に機械の轟く工場で労働に明け暮れる日々であった。

写真-12 札幌帝国製麻女工募集広告(北タイ 大7.9.4)

表-20 札幌帝国製麻工場男女別職工数(明42~大9)
前年比
明42年204人618人822人
43209634843+ 21
44182609791- 52
大 1186654840+ 49
22239351,158+318
32189821,200+ 42
42359691,204+ 4
52618781,139- 65
62617451,006-133
7208657865-141
82928071,099+234
9229705934-165
札幌区統計一班』(明43~大10)より。