開拓使時代に官営工場として操業開始した麦酒工場は、その後民間に払い下げられ、『札幌区統計一班』明治四十三年によれば、大日本麦酒株式会社札幌支店(北二条東四丁目、苗穂町)の醸造工場と製瓶所に女工が働いていた。四十二年では醸造工場に一五人の女工がいるが、次第に製瓶工場にも採用されるようになり、大正三年では醸造工場に一四人、製瓶工場に八人の計二二人が働いていた(札幌区統計一班 大正四年)。第一次世界大戦を境に事業が拡大されると、七年には両工場で五二人(同前 八年)、九年では五六人(同前 十年)とその数を増していく。
札幌工場での女工数は季節によって増減があり、十年夏の場合をみてみると、夏場の繁忙期には約一〇〇人の臨時雇の女性と女工が働いていたが、それを過ぎると女工のみとなった。臨時雇・女工ともに職工の妻たちが多く、もっぱら小遣い稼ぎが目的であった。これに比べ常雇の女工は、一日九〇銭で、一年中仕事量の減少する時期でも休まず出勤し、日給七〇銭くらいに三〇銭くらいの食費補助がついた。労働時間は朝六時から午後五時までで、昼食時のほか一五分ずつ二回の休憩がある以外は機械と一緒に働いた。彼女たちの工場内での仕事は、比較的簡単な瓶詰作業に従事する者が多く、古瓶の整理、栓を置く者、レッテル貼り、箱詰のための麦殻をかぶせる仕事などであった(北タイ 大10・10・8)。