日露戦争を境に準備看護婦から救護看護婦へその呼称を変えた。養成期間も四十一年入学の第一〇回生からは三年となり、一年目は道支部で学び、あとの二年間は日赤本社病院に委嘱して実務演習を行った。しかし、大正四年以降は日赤道支部仮病院が設置されたのでそこで行った(北海道の赤十字その百年)。
日赤道支部養成の看護婦は、三十二年に第一回卒業生九人が誕生(護国之礎)、以後毎年のように卒業生を出して大正十年三月の第一六回生を含め一四四人にのぼった(北タイ 大10・3・27)。その養成目的は、「傷病者の看護に関する学術並びに赤十字事業および陸海軍衛生勤務の要項を教授し、戦時又は災害に際して救護の実務」(護国之礎)にあったため、三十七・八年の日露戦争においては実際に救護看護婦として二六人が召集を受けている。
三十七年二月十四日、召集を受けた救護看護婦は札幌を出発、まず函館要塞病院で任務についた。その後も召集を受けるものが相次ぎ、札幌郡篠路村の一柳ツカも、同年九月十三日看護婦卒業式を終えるとすぐ召集を受け、第百救護班看護婦として大連・広島間を往復する陸軍病院船横浜丸に乗り組んだ。ところが当時流行していたジフテリアに感染、広島陸軍病院に入院したが、三十八年一月十九日死亡した(護国之礎)。二月七日、篠路村龍雲寺で葬儀が営まれたが、会葬者は園田長官代理はじめ、日赤関係者、出征軍人援護団体、村民など多数が参列した(北タイ 明38・2・10)。規則により日赤社長松方正義から父一柳庄五郎へ六〇〇円が下付されたが、うち二〇〇円は日赤本社事業費へ寄付されたという(北タイ 明38・3・15)。一方、函館要塞病院の任務についた救護看護婦は、三十八年二月旭川予備病院へ転属、十二月三日解散している(護国之礎)。
写真-13 日赤看護婦一柳ツカ『日本赤十字』169号(日本赤十字社蔵)
その後も大正三年(一九一四)の第一次世界大戦に際して、日赤道支部救護看護婦宮原鈴江子がイギリス派遣救護班に抜てき召集されたり(北タイ 大3・11・27)、同七年のシベリア出兵に際して、ウラジオストックにまで派遣され、八年十二月に帰札している(北タイ 大8・12・14)。
このように日赤救護看護婦は、養成目的にもあるように戦時・事変、災害救護、演習・点呼の際いつでも召集に応じなければならないといった義務があり、しかもそれは卒業後一五カ年と、非常に長かった。実際、戦争に際して日赤救護看護婦中島きくい子は、三十七年八月に出産したばかりのところ、十月召集の命が下り愛児を他に預けて応召している(北タイ 明37・10・21)。このほか志願者の条件には、一六歳以上二五歳以下、身長四尺七寸(一四一センチ)以上、身体強健、高等小卒業程度の学力を有する者、寄宿舎入寮制度、月に六円四〇銭の手当等があることが定められ、卒業後無試験で内務省看護婦資格が得られた(北タイ 大10・2・10)。
このほか看護婦養成は、区立札幌病院においても、明治三十二年四月附属看護婦養成所を開設して養成を開始した。修業年限は二年で、最初の一年は学術科目、あとの一年は実務演習となっており、衣服・食費の支給、手当が給与された。
看護婦は、戦時および平時における献身的な活動により、社会的地位も徐々に確立し、次第に増加してきた。内務省では、大正四年六月三十日看護婦規則を発令、看護婦の資格公認、試験科目等を規定した。これを受けて、五年より北海道庁による看護婦試験が春秋二回実施されるようになった。日赤道支部養成の看護婦以外はこの試験を受けねばならなかったが、ちなみに六年秋実施の看護婦試験までで五七人が合格した(北タイ 大6・11・6)。やがて七年三月よりは、区立札幌病院附属看護婦養成所も内務大臣認定となったので、卒業生は無試験で看護婦資格が得られるようになった。
さらに北海道帝国大学では附属医院の設置(大正10・11診療開始)に先だって、九年九月に看護法講習科が設置され、看護婦養成を開始した。講習期間は二年、入学資格は一六歳以上三〇歳未満の者となっていた(北大百年史 通説)。この時第一回生として四〇人が入所、学科と実習を受けた(北タイ 大9・9・11)。このほか、附属医院には産婆の養成施設も附置された(北大百年史 通説)。
一方、これら病院勤務の看護婦とは別に、患者の求めに応じて自宅で看護するいわゆる派出看護婦も誕生し、自宅看護婦会が明治三十八年設立された(北タイ 明38・10・14)。