この交換業務の男女の適性については、創業当初から種々議論があったところであるが、電話の加入者数が増し次第に繁忙さが増してくる日露戦争頃より男子交換手は「遅滞多し」とか、態度が横柄であるとか、不評を買うようになった(北タイ 明37・2・24)。その結果、三十八年三月の電話交換手伍長及電話交換手取締規則で交換手は女子のみとしたため、男子交換手は一人もいなくなった。それと同時に同規則で、交換手見習の指導・監督に交換手伍長を、また風紀衛生取締の監督を経験者のなかから任命することとした。やがて四十一年十一月の逓信官署雇員規程により、伍長・取締を主事補とした(札幌の電信電話八〇年のあゆみ)。
札幌電話交換局の取扱加入者数は、四十年で六三二、四十一年で八〇四と増加傾向にあったが、ちょうど四十年に交換局が焼失したこともあって、四十一年九月段階の設備は、市内交換機九台、市外交換機四台と交換機能が追いつかない状況で、加入者の苦情も多かった。当時交換手は三八人おり、このほかに伍長三人、取締監督二人の四三人が勤務していた。勤続年数は、交換手で三年以上が四人、三年が一人、三年未満が一〇人、伍長以上では七年以上が三人、三年以上が二人という状況で、官吏の家族出身者が多かった(同前、北タイ 明41・9・16)。
交換手たちには、内規として「電話交換手心得」(交通 三十八年八月)が課せられていた。そのなかには、品行方正であることや衣服・頭髪・化粧の注意から私語をつつしむこと、通信秘密の堅持のほか、毎日の勤務時間表を父兄や保証人に示し認印を受けることまで事細かに記されていた(札幌の電信電話八〇年のあゆみ)。
交換業務は、第一次世界大戦頃には電話加入者数も一層増大したため、一人当たりの通話数が全国を上回るほどとなり、繁劇をきわめた。大正七年当時の交換手の労働状況を新聞は次のように報じている。
一日八時間から九時間も頭に受話器をかけ通しで口と耳と手とが寸分の隙もなく働かせている(中略)絶えず耳を使っているのではじめて入った者は二日目から頭痛がし出したりめまいがして倒れる者が珍らしくない。段々に慣れるに従って激変はなくなるが、これは神経がマヒしたのであって健康状態ではない。医師の診断によればほとんど全部神経衰弱にかかっているというと。睡眠が不規則であるからであって、もっとも長い人は午前十時から翌朝八時まで、夜勤は午後六時から翌朝八時まで、仮眠時間はあるものの、眠ったと思えばすぐおこされ、健康が保たれる状態ではなかった。
(北海道報 大7・4・5~6)
このような激務の交換手の背後には、常に伍長・監督の目が光っており、「八方からにらみつけ」られている状況であった。表23は、実際に札幌電話交換局で当時働いていたある交換手の待遇と賃金を編年に示したものである。見習から交換手になるまで六カ月かかり、入局五年にして主事補、さらに二年八カ月後に通信書記補となり、判任官・月俸三五円に遇されているのがわかる。健康で働き続けられた珍しいケースではなかろうか。
表-23 札幌電話交換局におけるある交換手の待遇と賃金例 |
年月日(大正) | 待 遇 | 賃 金 |
6年3月23日 | 電話交換手見習 | 日給14銭 |
7.27 | 日給15銭 | |
8.11 | 特別加給毎月90銭 | |
8.17 | 臨時通信事務員 | 日給20銭 |
10. 1 | 電話交換手 | 日給22銭・特別加給毎月 1円 |
7. 3.21 | 日給25銭 | |
4.25 | 臨時手当1ヵ月 3円 | |
6.21 | 日給27銭 | |
8.15 | 特別加給1ヵ月 1円40銭 | |
9. 1 | 臨時手当1ヵ月 4円70銭 | |
9.21 | 日給29銭 | |
12.21 | 日給31銭 | |
8. 9.22 | 日給33銭 | |
10. 1 | 年功加給1ヵ月40銭 | |
9. 5.21 | 日給36銭 | |
6.21 | 日給38銭 | |
8. 1 | 日給68銭 | |
10. 1 | 年功加給1ヵ月50銭 | |
11. 1 | 年功加給1ヵ月 1円 | |
10. 3.21 | 日給70銭 | |
3.31 | 特殊有技者勤勉手当 | |
7.21 | 日給82銭 | |
12.21 | 日給85銭 | |
11. 4. 6 | 電話交換主事補 | 日給85銭・年功加給 1円50銭 |
9.21 | 日給89銭 | |
10. 1 | 年功加給 2円 | |
12. 6.21 | 日給96銭 | |
13. 3.21 | 年功加給 2円50銭 | |
12. 6 | 通信書記補 | 月俸35円(判任官) |
14. 6.30 | 月俸37円 | |
12.20 | 月俸39円 |
『札幌大通電話局80年のあゆみ』より作成。 |
一方、逓信省では女子を交換業務以外にも登用していく方針を早くから持っていた。三十三年七月の逓信省令で、郵便・電信の現業計算事務に女子職員を採用すること、女子電気通信技術伝習生養成所を開設することを定めた(逓信事業史 第三巻)。これを踏まえて三十四年、札幌郵便電信局でも女子電信技術生を採用しようと試みたが、軌道に乗らなかったようである。その後四十一年、札幌郵便局(三十六年改称)は女子通信伝習生第一回生を募集、一二人を採用して養成に入った(北タイ 明41・9・25)。成績良好だったので、以後も養成を継続している。こうして、女性の通信・電信業務への職域が広がった。