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戦争の翳り

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 開道五〇年記念北海道博覧会開幕の翌日、すなわち大正七年八月二日シベリア出兵宣言が発せられた。ロシア革命が起こると、革命の波及を避けるためにシベリアに出兵し、東部シベリアに緩衝国を作ってこれを日本の勢力下におこうという計画が軍や外務省で検討されていた。日本はアメリカとともに革命への干渉戦争を開始した。シベリア出兵が宣言された時、第七師団は南満州鉄道沿線に駐留中であった。そしてこのシベリア出兵に参加することとなるが、結果的には前年の六年から事態は動き出していた。経緯は次のようであった。
 日露戦争後、日本は南満州鉄道および満州における権益擁護のため、常時交代で一個師団の兵力をこの鉄道沿線に配置駐屯せしめていた。
 大正六年二月七日、第七師団に満州守備隊出動の命が下り、四月三十日月寒の歩兵第二五聯隊は満州駐屯兵を札幌駅から出発させた。その歓送として、区内各小学校生、庁立高女生、第一、第二、北海三中学生、師範学校生が駅前に整列して見送るとともに、花火、礼砲が轟いた。渡満兵はいったん小樽に集結、五月二日小樽埠頭より出発したが、埠頭には小樽区長をはじめ、区吏員、愛国婦人会員、日赤社員、新聞記者など多数が詰めかけ、万歳と花火とで見送るのだった(北タイ 大6・4・30、5・3)。
 あらかじめ渡満兵とその家族へは、渡満に対する注意と希望とを記した印刷物を配布し、安心を与えるのだった。その渡満兵の家庭に配布した印刷物には、駐屯する鉄嶺(てつれい)は満州の北端にあっても気候風土ともに本道と大差なく、兵舎も露国のをそのまま使用し、防寒のためにペチカという暖炉もあって快適であり、被服も潤沢で、給料も一カ月二円八銭すなわち今までより五二銭増額される計算である。鉄嶺地方は日本向きで日本語で差し支えなく、商店も多いし郵便も出せるので一切心配がいらぬと記してあった(北タイ 大6・4・27)。二五聯隊からの渡満兵は、同年十二月にも第二陣を札幌駅から送り出した。この際、愛国婦人会道支部では札幌駅頭で渡満兵に麦茶を饗応して見送るのだった。渡満兵とその家族たちは、よもや翌年のシベリア出兵に参加するとは思ってもみなかったのである。
 こうして第七師団は釜山・旅順・大連等に上陸し、うち歩兵第二五聯隊は鉄嶺に駐屯した。満州にあって守備任務についてから一年三カ月あるいは七カ月を経て、シベリア出兵に参加することとなった。
 愛国婦人会道支部では、渡満兵を見送ったのち慰問袋募集にとりかかり、七年三月には一万三〇〇〇個を満州へ向け発送した(北タイ 大7・4・10)。さらに八月二日、シベリア出兵宣言が下されると、同会では慰問袋募集に奔走するとともに、戦地で戦っている兵士たちを慰めようと道内の児童の絵画や綴方等まで集めて送るのだった(北タイ 大7・11・6)。
 シベリア出兵により、歩兵第二五聯隊の属する第七師団は、北満から極東ロシア三州(ザバイカル・アムール・沿海州)に進出、七年十一月第一次大戦の終結により翌八年五月中旬札幌、旭川に帰還した(旭川第七師団)。この時二五聯隊では四人の死者を出した(歩兵第二十五聯隊史)。九年二月以降、ニコラエフスク事件や北樺太占領などが相次いで起こったが、このため第七師団は再びこれらの地域に派遣され、十年七月に帰還するまで約一年間、極寒の地で任務を果たした。シベリアからの全面的な撤兵が行われたのは大正十一年のことである。この時も死者一三人を出した(同前)。シベリア出兵についての国内世論は冷ややかなものがあり、民衆暴動である米騒動が全国を揺るがしていたし、札幌区民も米価の暴騰の方が気になる日々であった。