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『少女世界』愛読者会

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 日露戦争後の明治三十九年九月、博文館から『少女世界』が創刊された。同誌は『少年世界』の姉妹誌として「紙数も口絵も、其の他一切の形式を同一」(木村小舟 少年文学史)にしていた。編集兼発行人は巌谷小波である。内容は「少女小説」「少女英語」「礼法」「少女画」「少女会館」などから構成され、全体として当時の良妻賢母主義的な教養理念に基づいていた。「少女小説」は巌谷、木村小舟などが、「少女画」は竹久夢二、鏑木清方などがそれぞれ担当していた。そのなかでも、「少女会館」と名付けられた投稿欄の人気はひときわ高かった。投稿欄も「作文」(選者・久留島武彦)、「短歌」(同・田山花袋)、「俳句」(同・巌谷小波)の三部門に分かれていた。特に、「作文」は二四〇字以内で書き成績によって、甲・乙・丙の各賞を授与した。それだけに全国から多数の応募があった。札幌からの応募も目立ち、明治四十年に乙賞を受賞した少女もいた。乙賞は二人で、六〇銭相当の書籍が贈られた。ちなみに同誌は一部一〇銭であった。その作品を紹介しておこう。
     嵐の一夜

石狩国札幌郡上手稲村二四番地 菅野菊子

 桐の一葉に秋の立ち初めて、降り暮らす時雨身にしむ計なり。あはれ秋とし云へば、さなきだに思出多き時なるに、況して今宵は賎が伏屋の窓打つ嵐の音いと荒く、覚束なくも叢にすだしき蟲のかず/\も今は何処に此肌寒き風を凌ぎてか?さても心なき此嵐、さぞや病み給へる花子の君の御枕辺訪れて、さらでも湿りがちにおはす優しき君の、み袖をうるほせる事ならんよ。噫さるにても、君の御いたづき心もとなしや、明けなばとく病める君がり訪れて慰めまつらんに、オヽ、いたくも明日の待たるゝよ。あはれ物悲しき嵐の夜は、いたう更け行きぬ。

(少女世界 第二巻第一五号)


 この作品に対して、「書きぶりに、少女らしい所があって、よろしい」という評が付されていた。

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写真-11 『少女世界』第四巻第七号

 こうした個人的な投稿活動とは別に、札幌区内では『少女世界』の愛読者会(少女会)が開催されていた。同会の発足時期は不明である。しかし、四十二年一月の「少女世界愛読者新年会」(北タイ 明42・1・5)、同年六月に「第二回札樽少女世界愛読者会」(北タイ 明42・6・15)がそれぞれ開催されていることを考え合わせると、遅くとも四十一年中には発足していたと思われる。同会の会員は札幌の少女を主とし、それに小樽の少女が加わっていた。同会の指導者は岩清水直次郎(札幌女子尋常高小学校訓導)であった。こうした愛読者会は全国的に開催されていた。
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写真-12 札幌愛読者会特別会員(少女世界 第4巻第11号)

 さて、「少女世界愛読者新年会」は豊平館で午前十時から午後五時までの七時間にわたって開催され、一〇〇人余りの札幌、小樽の少女のほかに小学校教員や新聞記者も参加していた(北タイ 明42・1・5)。当日のプログラムは「会員の談話、活人画、少女芝居、福引など、面白いものが数十番」(少女世界 第四巻第三号)であった。「第二回札樽少女世界愛読者会」は中正俱楽部で開催され、プログラムは「新年会」のそれを基本に、新たに「仕舞」「朗読」「お伽芝居」「英語対話」「弾琴」などが加わった(北タイ 明42・6・15)。
 この愛読者会は、『少女世界』という少女雑誌の地域の読者が主体となって、少女文化を継承・発展する場として貴重な役割を果たしていたといえよう。しかし、四十四年九月の「第五回札樽少女世界愛読者会」(北タイ 明44・9・19)以後の動向に関しては不明である。