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私立北海中学校

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 戦前期、北海道で唯一の私立中学校であった北海中学校は明治三十八年四月、札幌区の実業界を代表し衆議院議員でもあった浅羽靖の尽力によって開校した。同校は北海英語学校中学部を改組したものであるが、その設立目的は「中等教育の設備は、全道僅かに四ケの庁立中学あるのみにして、二千有余の学生を収容し得るに過ぎず。されば勢ひ多数の学生は笈を負ふて遠く他郷に出づるの不便を忍ばざるべからず、為に半途退学するの不幸に陥るもの、もとより少なしとせず。この欠陥を補ひ、国家教育の要務を完う」(北海百年史)すると記しているように、第二札幌中学校の場合と同様に中学校への入学難の解消を目指していた。

写真-14 北海中学校(明44)

 同校は志願者数の推移が示す通り(表6)、札幌中学校と比較して、大正中期まではそれほど多くはなく、北海道庁立中学校の補完的役割を担っていたといえよう。四十年の『北海タイムス』(明40・12・4)は「私立中学学生の志望と区郡別」と題して、浅羽の同校学生の志望調査結果を掲載している。それによると、同校学生の志望先の第一位は「実業」(七〇パーセント)で、次いで「軍人」(一二パーセント)と「海員」(一二パーセント)が占めていた。もちろん実際の進路とは異なることが予想されるが、同年の札幌中学校の卒業生では、「実業」や「軍人」関係は一人もいなかったように(北海道庁立札幌中学校一覧)、大きな違いが生じている。これは公立と私立の中学校間の進路の「棲み分け」がすでに形成されていたことを示すものであろう。
 明治四十二年に始まった「義士講」は、同校独特の学校行事であった。これは赤穂浪士討ち入りの旧暦十二月十四日(新暦一月十四日)、午後六時から翌朝六時まで同校生全員が徹夜で義士伝を読み合うもので、途中、教員の講話や生徒の演説、余興などをおりまぜて行われた(北海百年史)。この「義士講」は明治維新のころ九州で行われていたが、浅羽が「現代の青年は軽佻である故義士講の善き所を取って此様な悪風を改良しようと思って本校に之を設けた次第」と述べているように、同校の「精神教育の場」として導入された(同前)。