写真-14 北海中学校(明44)
同校は志願者数の推移が示す通り(表6)、札幌中学校と比較して、大正中期まではそれほど多くはなく、北海道庁立中学校の補完的役割を担っていたといえよう。四十年の『北海タイムス』(明40・12・4)は「私立中学学生の志望と区郡別」と題して、浅羽の同校学生の志望調査結果を掲載している。それによると、同校学生の志望先の第一位は「実業」(七〇パーセント)で、次いで「軍人」(一二パーセント)と「海員」(一二パーセント)が占めていた。もちろん実際の進路とは異なることが予想されるが、同年の札幌中学校の卒業生では、「実業」や「軍人」関係は一人もいなかったように(北海道庁立札幌中学校一覧)、大きな違いが生じている。これは公立と私立の中学校間の進路の「棲み分け」がすでに形成されていたことを示すものであろう。
明治四十二年に始まった「義士講」は、同校独特の学校行事であった。これは赤穂浪士討ち入りの旧暦十二月十四日(新暦一月十四日)、午後六時から翌朝六時まで同校生全員が徹夜で義士伝を読み合うもので、途中、教員の講話や生徒の演説、余興などをおりまぜて行われた(北海百年史)。この「義士講」は明治維新のころ九州で行われていたが、浅羽が「現代の青年は軽佻である故義士講の善き所を取って此様な悪風を改良しようと思って本校に之を設けた次第」と述べているように、同校の「精神教育の場」として導入された(同前)。