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演劇運動の成立

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 今のところ一応地元の演劇運動とみられるのは、前記三十七年五月開催の戦勝祝賀演劇に関する『北海タイムス』の記事(5・7)が初出である。同記事はまず同演劇は「嬉しくも吾人に向って『本道演劇界の一進歩』てふ吉報を齎らしたのである。長く世人に打捨られたる演劇界に一の新生面を開き得たのである」と位置づけ、ついで「其の演ぜらるゝ劇の巧拙善悪は扨置き、兎も角も新進青年文士等の創作を取りて直ちに之を舞台に上せたる座主と俳優諸子との勇断は、吾輩転た此の社会の為めに満腔の賞讃を与へざるを得ぬのである」とその意義を強調した。その実際については、「嗚呼軍神」は柴田如峯、「雪月花」のうちの月は中山翠州、花は小口紫水の作で、「劇は純粋の正劇」とされている。出演者中「三国屋主人」「原田赤帽子」(文治郎)、「千歳米坡」の名が挙げられているが、「其の他俳優諸子に対する芸評はお預り」とされている。演技として評するまでに至ってはいないということであろう。しかし脚本から俳優までを地元で揃えたことは、おそらくこれが最初であろうし、これが地元に与えた影響は、決して少なくなかったと思われる。
 ついで明治四十二年の『小樽新聞』には次のような記事がみえる。
来る三十、来月一、二の三日間、札幌大黒座に於て高橋魯斉子発起柴田如峯子之れが補助となって演劇研究会を催す由。出し物は第一如峯の出し物「寺子屋」浄瑠璃租摩太夫出勤、第二札見茶良子出し物「丸橋忠弥」、第三は同区三見番芸妓中演劇に掛けては第一位を占むる元見菊太郎の出し物「袖萩祭文」、第四「鞘当」は菊太郎、茶良子、長松出勤、第五は札見長松の出し物「雪に常盤」、第六魯斉、元見八千代の出し物掬汀作「喜劇鈴ヶ森事件」等の由にて、右の外、各見番芸妓、幇間連一同応援為す筈なりと。
(明42・11・25)

 演劇研究会とはいえ、すくなくともこの公演は芸妓芝居にすぎなかったともいえるが、同時に前出の『北海タイムス』連載ものの上演では、大正三年二月公演の「野晒勘三郎劇」の脚色は柴田如峯が行っており、本格的な演劇運動につながる動きが継続してあったことを推定させる。