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北斗画会の結成と活動

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 三十九年一月三十日に北斗画会が開催され、石川梧堂、新居湘香ら書家、石川淡水、菅原翠洲ら画家が出席し、来会約二〇〇人におよぶ盛会であった(北タイ 明39・2・1)。同会に関する記事はこれが初出であり、おそらくこの頃結成されたと思われる。また発会当初の性格も、これまで多くみられた書画揮毫の会でしかなかったといえる。しかし五月二十日に開催された第五回月次会で協議の結果、「会則を改め、会員の部類を頒ち、大に製作を試み、盛に展覧会を開催」(北タイ 明39・5・22)することとし、揮毫会は年に春秋の二回に押えることとした。
 第一回絵画展覧会は同年九月に開催され、出品点数は尺五寸以上の絹本七二点、洋画五〇点であったが、この中には会員菅原が上京、出品勧誘に応じた作品もあった。地元画家として日本画では藤井直邨、菅原翠洲、石川淡水森川菊畝などが、洋画では田代西美長谷川昇丹内正雄等の作品がすぐれたものとして紹介されている(北タイ 明39・9・19)。第二回展覧会は四十年六月に、やはり東京からの出品も得、「和洋画百余点」を集めて開催された。さらに同年七月頃、九月十一日に挙行される東北帝国大学農科大学開校式を機として行うことと決し、同月開催されたが、年に二回は若干の無理があったのであろうか、会員よりもむしろ東京その他道内からの出品が多かったようである。
 北斗画会はその後大正中期に今井呉服店などで展覧会を開き、大正九年十一月にはエルム画会と連合した公募展などを開いたが、明治四十年代から大正にかけては、かなりの美術団体が活動しており、同会が札幌美術界の中心であった時期は必ずしも長くはなかったが、揮毫会にとどまらないその活動は、その後の美術活動の隆盛に大きな役割を果たしたといえよう。