日露戦後の神社統合をみると、全国で神社総数が明治三十九年に一九万四三五社あったのが、大正八年には一一万六一九三社に激減するのに対し、道内の神社数は三十九年に五八〇社あったのが、大正五年には四一六社へと、減少が比較的緩やかである。これは、統合のなされ方に地域的ばらつきがあったためで、道南など旧開地における神社統合では神社が減る一方で、十勝・上川・天塩地方では開拓の進展にともない創建社が増えたためである。
そしてその頂点に、三十九年四月の官国幣社国庫供進制度により、経済的基盤を確保した札幌神社が位置づくのである(村上重良 国家神道)。北海道の官幣大社としての地位を確立するとともに、札幌神社神札の全道頒布の具体化が、三十三年十一月十日道庁告示第四五八号「本道拓殖ノ守護神タルヲ以テ、本年以後毎年全道へ大麻頒布ノ旨、同社宮司ヨリ申出タリ」によってなされ、頒布の実数は四、五万体にのぼった(もっとも道南の頒布は既存の神社秩序により困難であった)。また札幌神社の分霊についても、三十二年四月八日、分霊手続きには地方長官が内務大臣経伺という煩瑣な手続きが必要との規定ができたが、明治四十年代には北海道庁で裁可できる特別神璽の授与という抜け道ができた。さらに大正十二年内務省令六号で、地方長官が祭神等を変更する時は、内務大臣に禀請すべしとされたが、「但シ北海道ニ在リテハ此ノ限ニ在ラス」との規定により、日露戦後の神社統合とは逆のベクトルがはたらく。
明治三十年代から大正期、札幌神社の開拓三神の「分霊奉斎の最盛期」となり、特に十勝・上川地方で活発で、明治三十八年から大正九年までの札幌神社の分霊社数は二六社にのぼった(北海道神宮史 上巻)。
かくして「開拓ノ守護神」たる官幣大社札幌神社は、五八〇社(明39現在)もある北海道内の神社の頂点に立ち、既存の函館など道南の神社勢力に対し、札幌を中心とした官製の全道的神社秩序を打ち立てるべく道庁と結びつき、開拓の進展と日露戦後の神社統合の中で、開拓三神を分霊する各地の神社を全道的に創建・再編してゆく。そして日露戦後に、地域の神社の機能は、人々の祈願奉賽から「国家の宗祀」へと転換していったと考えられる(小笠原省三編 北海道拓殖と神社)。