以上の団体・組織は、いずれも教団、宗派、寺院に付属するものであったが、この時期にそのような付属性をもたずに市民仏教徒を糾合した組織がつくられた。それは明治三十七年十月に成立した北海仏教団である。ただし、同団にはその前身となるものに東京通俗仏教団札幌支部があった。
東京通俗仏教団は曹洞宗の高田道見によりつくられ、彼は『通俗仏教新聞』などを刊行して在家仏教を推進していた。札幌支部は団員が二〇〇余人に達したことにより、三十六年十月十日に中央寺で発会式が行われて創設された。十二月には東京より山口滝子が教義拡張のために派遣され、仏教演説会が開かれている。支部では毎月例会がもたれていたが、三十七年七月以降は名称を変えたらしく札幌通仏教団と報道されている。
以上の東京通俗仏教団札幌支部、札幌通仏教団をもとに北海仏教団が結成されることになる。結団の契機は、札幌支部発足の一周年を迎え、会名を変更して「拡張を図り」「大に雄飛活動せん」とすることにあった。会則によれば北海仏教団は、「仏教の普及を図るを以て目的」とされ、毎月第二日曜日に例会を開くものとされていた(北タイ 明37・10・4)。三十七年十月九日に、中央寺にて創立大会及び発団式があげられ、婦人団員の中に婦人世話係の設置などの内規が決められている。
北海仏教団の具体的な活動は例会などの仏教演説会であったが、ここでは僧侶に混じって在家信者の演説もみられることが特徴であった。また時期がちょうど日露戦争に際会していたので、戦死者追吊会の開催や軍事献金なども行われていた。また、村上専精、加藤咄堂、大内青巒、井上円了などの高名な仏教学者が来札した折りには講演会を開くなどしていた。
北海仏教団では組織の拡張をはかり、三十八年七月に月形支部、十月に広島支部が設置されていくが、四十年後半あたりから例会の流会が目につくようになる。『最近之札幌』(明42)には、「北海仏教団の如きは会員数百名に達し、一時は非常に盛なりしも、今は他の多くの団体と共に有名無実の状態に在り」と述べられており、四十一年末には活動も停止したようである。
北海仏教団は評議委員などのメンバーをみると、各寺の檀家総代や公職者がそろっており、また各寺の住職を名誉講師として取り込むなど、全区内の仏教関係者を組織化していた。このような仏教組織団体は後にも先にもこれが唯一であった。この点に北海仏教団の第一の歴史的意義が認められる。第二に、在家仏教の推進という近代啓蒙期ならでの新仏教運動の展開が札幌でも大規模にみられたことである。しかしながら、同団は日露戦争に際会して国家安泰の仏教イデオロギーに支えられて盛興に導かれた部分が多く、それゆえに戦後は急速に活動が衰退していくのであった。
以上のような各種の仏教団体により、仏教の教理・教義が社会生活の中にも実践・普及され、国体観念と結び付きながらも「市民仏教」として展開されていったのである。