北光教会(この名称を正式に名乗ったのは昭和十七年一月)牧師椿真六は、対米英開戦の前々週、「時局の為に祈る」と題する礼拝説教で、「日米問題も、結局は一度双方の立場を離れて」協調すべきことを訴えた。しかし開戦後は、宣戦布告の詔書の文言を示しつつ、教会員に「主権者の命令は、直ちに神の命令であります。されば之を実行する以外に又別の道はありません」と説いた(同教会 週報)。札幌教会牧師真野萬穰も翌週十四日、「聖戦の詔勅を拝読し五体に漲り来る感激」をもって、「長期戦来たらば来れ」と説教をした(札幌教会百年の歩み)。北一条教会牧師小野村林蔵は、開戦の朝、理事をしていた北星女学校の生徒たちに戦意を鼓舞する檄を飛ばしていたという(北星学園百年史 通史篇)。キリスト教界にとっても、これまでの「事変」と異なり、対米英宣戦布告は戦争完遂以外の主張をなし得ない事態の到来であった。
対米英開戦によって日本のキリスト教は、はっきりと「敵性宗教」とみられるようになり、キリスト教界もまたそれを意識して、全面的に戦争遂行への協力姿勢を示し、国策に逸脱しているとみられないように努めた。昭和十七年になると、札幌の教会内でも報国団が結成され、出征兵士への慰問袋や戦闘機建造献金を行った。北光教会の年間標語も、前年の「良心聖化」から「必勝」となった。札幌教会の『週報』から聖書の字句が少なくなり、青年たちが牧師に説教ではもっと聖書に触れるよう求めることがあった。十八年頃からプロテスタントの教会では、礼拝前に君が代を歌い宮城遥拝をする「国民儀礼」が行われるようになった。また、「大東亜建設」などを詞題とする『興亜讃美歌』(昭18)も歌われるようになった。北十一条天主公教会でもミサのあるたびにではなかったが、特別の日には国民儀礼を集会の前に行った。
公の場での発言や公表された記事は、戦争の鼓吹と天皇への帰一を示す言辞によって占められた。しかし、監督・取締当局は、キリスト教界の公式の態度表明を偽装・日和見とみて、戦争遂行に消極的な言動を摘発し続けた。札幌の多くの教会で、「特高」警察官や憲兵隊員が礼拝に立入り、また礼拝出席者を尋問し、あるいは日常的に教会への出入りを監視していた。